2020原宿百景
4月にアップしたのを最後に気がつけば8カ月以上もブログを放置しっぱなしでした。
2020年は世界中にとって歴史に刻まれる年となりましたが、今年の総括として、私がこの一年に間に見てきた原宿の姿を記録しておこうと思います。
2020年1月、年明けすぐにオリンピック開催後に取り壊されることになった原宿駅舎に写真を撮りに行ったことは前回のブログにも書きました。
このときはまだ利用されていた駅は明治神宮参拝の人たちでにぎわっていて、別れを惜しみながら写真を撮っている人もたくさんいました。
4月になって緊急事態宣言が発令されると、原宿のランドマーク、ラフォーレ原宿や表参道ヒルズのみならず、個人のショップもクローズし、原宿から人が消えました。
5月7日、仕事で表参道にどうしても行かなきゃならない用事ができたついでに、原宿の様子を見ておこうと思いました。
駅前に4月にオープンする予定だったWITH HARAJUKU。4月に行われる式典に関して、私も少しお手伝いさせていただいていましたが、式典は中止となりました。
本来だったら、GWは人でごったがえしていたはずのこのビルの正面に入っているUNIQLOもIKEAももちろんクローズしたままでした。
私は写真集『70’HARAJUKU』とエッセイ集『70s 原宿 原風景』を作ったので、たくさんの人と昔の原宿について語り合ってきましたが、誰もが「70年代の竹下通りは閑散としたものだった」と言います。70年代から原宿で遊んできた私ももちろん人通りの少なかった竹下通りをよく知っています。
けれど、この日の竹下通りは、70年代と比べても、こんなに寂しい竹下通りは初めて見た、といった感じでした。
竹下通りから明治通りを横切ってキャットストリートにも行ってみました。
「キャットストリート」なんて呼ばれる前の、みんなが単に「遊歩道」と言っていた頃のこの道は、アシスタント時代の私が仕事場(師匠・高橋靖子さんの自宅)に出勤する道でしたが、その頃を思い出す雰囲気でした。
いつもなら、平日でも、どんな時間帯でも、中国人観光客で賑わっている表参道は遠くまで見通すことのできる様子でした。
この日から約半年経った10月。教えてる大学の学生たちを引率して、原宿で撮影の講義を行いました。
60年代から神宮前交差点にあったビル「オリンピアアネックス」は、いつの間にか取り壊されていて、交差点には見たことのない青空が広がっていました。
学生たちと一緒に裏道も散策しました。
予想以上に空き家になった物件、シャッターが閉まったままのショップ、建物が取り壊され、前とは違う風景になってしまったところが多く、今年になってお店を経営する人たちがどんなに大変だったかを想像すると、心が痛みました。
今年の原宿は前代未聞の様子となりましたが、実は、今年は明治神宮鎮座100年の年でした。
11月1日夜、友人たちと明治神宮鎮座百年祭奉祝に行きました。
明治神宮は、百年前の人々が百年後を想定して植樹した奇跡の人口の森です。
今年は世界中が思いもよらない災難に見舞われましたが、平和について、地球の環境について、未来について、暮らし方について、これほど世界中の人々が一体となって考えた年は未だかつてなかったのではないでしょうか。
100年後の2120年、地球は、日本は、私たちの暮らす街は、どのようになっているのでしょう。
おごそかな鎮守の森を見上げながら、それは今の私たち、一人一人の意識と行動にかかっていると考えました。
今年作られた「原宿表参道百年祭」のサイトで、わたくし中村のんも「MEMORIES 百人の百年の思い出」のコーナーに、コメントさせていただいています。
No.013
スタイリスト/エッセイスト
中村 のん
諸行無常の春2020
2月16日、神宮前交差点そばにあったコロンバンが、1967年に開店してからの53年間の営業に幕を閉じた。
コロンバンがなくなることは前々から聞いていたので、昨年の秋、師匠である「表参道のヤッコさん」こと、スタイリスト第一号の高橋靖子さんと一緒に記念写真を撮った。
ヤッコさんとしょっちゅう行ってたのは、70年代、私がヤッコさんのアシスタントをしている頃だった。
ケーキ屋さんだけど、昔は、店内での喫煙がOKだった。
ヤッコさんがお店の人にお願いして譲ってもらった灰皿を、私もヤッコさんからひとつもらった。
3月21日にJR原宿の新しい駅がオープンした。ガラス張りの四角い箱みたいな建物だ。
今年の1月、70年代からの友達、ジェーン・マープルのデザイナー、村野めぐみさんと一緒に原宿駅舎の前で記念写真を撮ることにした。
娘が撮ってくれた写真。
村野めぐみさんは、高校生のときに、原宿のフランセで、次にゴローズでバイトして、桑沢デザイン研究所を卒業したあとは、原宿のMILKにデザイナーとして就職。
ジェーン・マープルを立ち上げてからずっと、ラフォーレ原宿の中にショップを構える生粋の原宿っ子。
二人で原宿に立つと、思い出話がつきない。
東京大空襲も逃れて生き延びてきた駅舎が、自分が生きている間になくなるとは思ってもみなかった。
2016年に東京新聞の取材を受け、残してほしいと訴えた。
3月24日、神宮前交差点のオリンピアアネックスの地下に1983年からあった古着屋さん「シカゴ」本店が、37年間の営業の幕を閉じた。
この店のネオンも「ここにあるのが当たり前」だった。
原宿の都市開発に伴って、シカゴが入っていたオリンピアアネックスのビルが解体されるのも、時間の問題だ。
東急プラザ表参道原宿の屋上から見えるこの風景は、あと少しで違う風景になってしまう。
新型コロナウィルスの影響で、3月になってから、原宿を歩く人の数はぐっと減った。
でもそれは原宿に限ったことではない。人であふれていた街は、どこも変わってしまった。テレビの中にいるのが当たり前だった志村けんさんも突然いなくなってしまった。
3月の頭に予定されていたイラストレーターの和田誠さんを偲ぶ会は、新型コロナウイルスの影響でなくなった。
3月13日、和田さんの奥さんの平野レミさんと一緒に、代々木上原~代々木公園の横を通って、原宿駅を眺めながら、青山の骨董通りまでお散歩した。
和田さんと青山に暮らしていたときの新婚時代の思い出話を聞きながら。
その数日後、男友達が、和田誠さんの画集『山手線一周 1995』を送ってくれた。
和田さんの手にかかると、可愛らしい駅舎が、より一層あたたかさを増す。
「この駅は昔から変わらないね。」と、和田さんの言葉が。
和田さん、それがね、変わっちゃったんですよ、と本に向かって話しかけた。
JRは、東京オリンピックが終わったら、この駅舎を解体し、耐火建材を使ってできるだけ忠実に再現すると発表した。
でもね、「木造」でなくちゃ、この雰囲気はありえないんですよと言いたい。
オリンピックは、一年後の2021年開催に延期と発表された。
てことは、木造駅舎の解体も、一年後に延期となるのか、とても気になる。。。。
世の中が今、それどころじゃないことをわかりつつも。
今日、4月1日はエイプリルフール。
3か月振りに書いたブログ。ここに書いたことが全部、嘘だったらいいのに。。。
去年の5月に出版した拙著『70s原宿 原風景』(DU BOOKS)に45人の人々が書いてくださったエッセイが、ますます貴重なものになってくる。
トウキョウ・ロック・ビギニングス「はっぴいえんど」
「日本語のロック」はどうやって生まれてきたのか。
堤さんからスタイリストの依頼を受けた瞬間、コアな「はっぴいえんどマニア」の友人たちの顔が目に浮かび、はたして、50年前の服を、タイトなスケジュールの中でどこまで再現できるかとドキドキしました。
再現の元となる映像も写真も残っておらず、当人のメンバーたちもこのとき何を着ていたか覚えていないとのこと。参考にしたのはもちろん、野上眞宏さんが撮影された当時の写真でした。
デニム類は古着やを回れば、なんとかなるかな、とも思いましたが、困ったのは、鈴木茂さんのこのタンクトップ。堤監督からの「茂さんのこのタンクトップだけはどうしても欲しい」というオーダーに、頭を抱えました。見つかりっこないもん(笑)
知り合いのグラフィックデザイナーにフォントを再現してもらい、テキスタイルデザイナーのシミズダニヤスノブさんに、写真をじっくり見てもらって、70年代当時のプリント製法で作ってもらったのがこのタンクトップです。
衣装を抱えて撮影現場の世田谷区民会館に着いたら、野上眞宏さんをはじめ、横浜赤レンガ倉庫での「70’sバイブレーション」を企画された(私もトークショーに出演させていただきました)山中聡さん、ナイアガラエンタープライズの坂口さん等々、知り合いたちが何人もいらしてて、嬉しいと同時に、はっぴいえんどに詳しい面々なので、衣装についてのご意見にドキドキしました。
いつか、堤監督には、「ボヘミアン・ラプソディ」みたいな、はっぴいえんどの映画を作っていただきたいです!
最後に。今年、5月に私の編・著で出版した『70s原宿 原風景』(DU BOOKS)では、野上眞宏さんが、「セントラルアパート702号室とはっぴいえんど」というタイトルで、はっぴいえんどと共に過ごした青春の思い出を書いてくださっています。
茅ヶ崎で過ごした幸せな二日間
11月9日、茅ヶ崎の「クリエイティブスペース・ハヤシ」で行われた「秋日の読書散歩2019」のゲストとして呼んでいただきました。
茅ヶ崎駅まで迎えにきてくれた車(初めての電気自動車)が私のこの日の服とピッタリな色で、気持ちが上がりました!
おまけに、この日の茅ヶ崎の海と空の色とも同じだったし。
「読書散歩」というテーマなので、私が出版した2冊の本『70’HARAJUKU』(小学館)と『70s原宿 原風景』(DU BOOKS)をテーマとしたトークをすることになっていましたが、茅ヶ崎で70年代の原宿に興味をもって集まってくれる方たちがどのくらいいるのかしら?と正直不安でした。
ところがたくさんの方が集まってくださって、終わってから口々に「懐かしかった」「色々思い出した」「楽しかった」と言ってくださって嬉しかった。
私が作った写真集『70'HARAJUKU』の中には、パシフィックホテルのパシフィックパークで横木安良夫さんが撮影された写真も入っています。なんで原宿の写真集に茅ヶ崎?という人もいるけど、70年代は第一次サーフィンブームだったこともあり、原宿で遊んでた若者たちにとって、原宿と茅ヶ崎は地続きだったのです。
茅ヶ崎で生まれ育ったギャラリーのオーナー美砂さんにとって、今はなきパシフィックパークは原風景であり、聖地のような場所だそうです。
この日の夜は、美砂さんが、小津安二郎が常宿としていたことで有名な「茅ヶ崎館」を予約しておいてくれたので、前々からとても楽しみにしていました。泊まるだけでなく、行くのも初めてなので。
一歩足を踏み入れた途端、古き良き時代がそのままに残されたお部屋のあちこちに感激して、写真を撮りまくってしまいました。
その中のほんの一部だけ貼り付けます。
朝起きて、庭から道路に降りてまっすぐ海に向かいました。
湘南に住んでいる人にとっては当たり前の朝も、海から遠く離れたところから来た者のとっては贅沢な朝です。
朝風呂に入って、海をお散歩したあとの朝ごはんは格別の美味しさでした。
私のトークの次、10日は写真家のハービー山口さんのトークの日でした。
ハービーさんとお会いするのは久しぶり。
早く着いたハービーさんと美砂さんのご自宅のお庭でまったり日向ぼっこをしました。
「被写体の幸せを祈りながらシャッターを切る!」というハービーさんのトークはいつ聴いても、あったかくて面白くて、当然ながらこの日も大盛況でした!
トークが終わってから、客席にいた素敵な二人ずれの若い男性と話しているうちに、あ、そうだ!と思って、「ハービーさん、撮って!」と二人を引っ張って(笑)ゆきました。会話もしないですぐにカメラを手にしたハービーさん。
そこに美砂さんのお嬢さんの18歳の類ちゃんがやってきたので、抜群のスタイルの類ちゃんにも「入って」と声をかけるとテレもせずにすっとそこに立った類ちゃんに、モデルの素質あり!と思いました。トークショーに参加されてたミュージシャンの持永さんも加えて即興の撮影会が始まりました。
ジョー・ストラマーやボーイ・ジョージをはじめ、ハービーさんがなぜあんなに自然で素敵なスナップを一瞬の出会いのうちに撮れるのか、その理由を垣間見たような気持ちになりました。
みんなで夕焼けの海を見に行きました。
家の事情も色々あって、旅をすることがなかなかできない状態の今の私ですが、
今回いただいた茅ヶ崎でのお仕事で、たったの二日間とは思えない、濃く充実した、そして茅ヶ崎の光と風を浴びながら、ゆったりとした時間を過ごすことができました。
茅ヶ崎に呼んでくださった林美砂さん、企画してくださった尾崎靖さん、そして、一緒に過ごしてくださった皆さんに素直に、感謝しながら帰途につきました。
またゆっくり行きたいです。茅ヶ崎。
色とりどりの食卓と誰もいない海
夏休みらしい一日を友人たちと過ごしました。
お盆シーズンなので交通渋滞を心配してたけど、予想外の1時間で着いた海の側の友達の家。
入った途端、リゾート気分!
80年代、右肩上がりの時代にボディコンシャスの代表的ブランド、ピンキー&ダイアンのデザイナーとして活躍していた矢野よしみさんは、その後、パリに移住、そして23年間、ニューヨークに暮らし、震災前に日本に帰ってきて、今は、海の側で、健康的な独身ライフを送っていますが、ファッションの世界や海外生活で培ってきたセンスが、お料理にもたっぷり。
食卓もにぎやかだったけど、みんなもにぎやかで、美味しいお料理をいただきながら、笑いが絶えませんでした。
お腹がいっぱいになったあと、みんな揃って海にお散歩に行きました。
みんなでおしゃべりするのは楽しい。そして、誰もいない海を一人で眺めるのもいい。
たった一日とはいえ、その両方を満喫できた充実の夏休み。
若い頃の楽しい夏の思い出は山ほどあるけど、すっかり大人になってから、それぞれの人生を語り合いながら、こんな風に過ごせるのも、本当に幸せなことだな~と思います。
ドレスコードを決めたわけじゃないのに、この日、それぞれが着てきた服が、どれもリゾート気分いっぱいのプリントだったことからも、視覚的な夏の気分が上がりました。
やっぱり服も大事よね。
とても素敵な、幸せな夏の一日を過ごさせてくれたよしみさんに感謝です!
この日は、終戦記念日。みんなが笑顔で過ごせるこのような平和な日々が、ずっとずっと続きますようにと、祈らずにはいられませんでした。
真夏の夜の一期一会
8月7日、狛江の花火大会が行われました。狛江の花火は三年ごとですが、去年は雨で流れたので、今年は四年ぶりの花火大会となり、その分、みんな期待大でした。
友人たちと長束さん、むとうさんご夫婦のスイートハウスに呼ばれました。
二人はここに引っ越してきて初めての花火、多摩川の近くのマンションながらも、どこから打ち上げられるのかわからないので、大勢呼んだものの、「ちゃんと見えるかどうかわからないよ~」とちょっと不安そうでした。
空が真っ暗になった頃、いよいよ、花火開始!なんと、目の前に、お月様めがけてドッカ―ン!
ベストポジションだったことに一同、大興奮!
花火の写真は、このお家のご主人、長束芳彦さんが撮られたものを拝借して掲載。
5000発の花火に向かって、打ち上げられるたびに、歓声を上げる人、最初から最後までじっと黙って見入っていた人、必死で撮影する人、反応はさまざまだったけど、誰の心も感動でいっぱい。
これでもかこれでもかという花火が終わったあと、むとうさん手作りのお料理の数々が、やはりこれでもかこれでもかとばかりキッチンから運ばれてきました。
テーブルも、空の華やかさにふさわしい華やかな色どりでした。
「毎朝、テラスの植物に水やりしてるだけでこんなに焼けちゃった」という小麦色の肌が似合うむとうさん、魅力的!
みんなで記念写真を撮ったあと、ご近所の坂巻さんのお家に集まっていた人たちも来て、またまた記念写真を撮りました。
花火、ありがとう!
楽しい夜を一緒に過ごした人たち、ありがとう!
そして、なんといってもみんなを幸せな笑顔にしてくれた長束さん、むとうさん、ありがとう!
三年後、またみんなで元気に集まろうねと誓い合ったのでした。
約束だよ!
先に帰る山田さんを玄関までむとうさんと見送りに行ったら、山田さんが「めでたい!」と撮ってくれた写真。
7月5日(金)中村のん×宮沢章夫トークイベント@銀座蔦屋書店
「ファッションの街、原宿が誕生した時代、70年代とサブカルチャー」というテーマで劇作家の宮沢章夫さんと、銀座蔦屋書店でトークさせていただいてから早一週間経ってからの投稿です。
当日にならないとわからない来場者数でしたが、おかげさまで定員の50人以上の方がいらして立ち見もでるくらいでした。
実は銀座蔦屋書店さんからは、5月に出版する前からトークイベントのお話をいただいていたのですが、トークのお相手が決まらないままズルズル時間だけが過ぎていっていました。
ある日、宮沢章夫さんがナビゲーターを務められたNHK Eテレの「ニッポン戦後サブカルチャー史」のシリーズ10回分のアーカイブを改めて観ていたら(この番組は放送された2014年の時点で既に見てはいたのですが)宮沢さんのお話に引き込まれ、前にも読んでいた同タイトルの本を本棚から取り出して再読したら、ますます興味を引かれ、思い切って宮沢さんに、トークのお相手をお願いするメールをお送りしていまいました。
一面識もない宮沢さんでしたが、既に私の作った写真集『70’HARAJUKU』もお持ちだということで、快く引き受けてくださり、初めてお話するのはトークイベント会場でという流れになりました。
登壇した途端、お客さんたちを前に飄々とした口ぶりで「今日は殴り合いになるかもしれませんよ(笑)」と話し出した宮沢さんに客席もいきなり大笑い。
いきなりの変化球に、なんとなく頭の中に描いていた流れがぶっ飛び、そのあとも宮沢さんから投げられる変化球をなんとか受け止めたり、どこに飛んでくかわからない話題を軌道修正したりと、とても刺激的なトークになりました。
トークが始まった最初から最後まで大笑いする声が客席のあちこちから聞こえてきて、ハイスツールから見えるお客さんたちの表情は終始笑顔で、
「70年代は身体性の時代だったが、70年代の終わりから始まる80年代は記号化の時代だった」といったアカデミックな考察を述べながら、その中に突然、笑いの場を織り込んだり、嘘かホントはわからない面白ネタで惑わせたり、さすが「鬼才の劇作家」と言われるだけのことはある宮沢さんでした!
終わってから何人もの人たちから「いや~、いいコンビだった!」とか「ピッタリなコンビでしたね」等々言われたけど、ちゃんとお話したの初めてだし、コンビ組んだ覚えはないんですけど(笑)でも、みなさんに楽しんでもらえて嬉しかったです。
すべてインテリでありつつユーモアのセンス抜群の宮沢さんのおかげと感謝いっぱい!
70年代をまったく知らない世代の人たちが興味をもって来てくれたのも嬉しかったです。
たくさんの方たちが本を購入して下さり、サイン会の最後まで残ってくれた友人たち(男性4人)と銀座ライオンに行って、トークイベントの続きのような話ができたのもとても楽しかったです!