わたしと明日のおしゃれなカンケイ

スタイリスト&エッセイストの中村のんの日々、印象に残った出来事。

宮森隆行さんのスイートなお別れの会

ヘアーメイクの宮森隆行さんの訃報を知ったのは、亡くなられた翌日の24日だった。55歳という若すぎる死に接し、悲しいというより、信じられない気持ちのまま数日間を過ごした。
そして今日、30日、青山葬儀所で執り行われる「お別れの会」に向かった。

無宗教の形式で行われた会場の祭壇には、真ん中に鮮やかな南国の花々、その両脇にはピンクと白のスイートな花々が飾られていた。
喪主である妻の絵利さんが着ていたのは喪服ではなく、真っ白いワンピース。
最初に弔辞を述べたのは、野田MAPのお芝居で、ずっとヘアーメイクを担当してきた宮森君と、長らくお仕事をされてきたひびのこづえさん。

音楽が流れる中、全員のお焼香が終わったあと、別室に移動した。
長テーブルの紙に、宮森君を愛した人たち、宮森君に感謝している人たちがメッセージを書いた。

私は昔、宮森君とロケで行ったスイスで買ってきたポストカードにメッセージを書いて持って行き、紙に貼り付けた。この絵の中の男の子は、ほんわかした雰囲気が、なんとなく宮森君に似ている。とくにアシスタント時代の宮森君に。

スイスではオフの日に、一緒にシャガールの絵のスタンドグラスのある教会へ行ったり、美術館でクレーの絵を観たりした。
そのとき、「僕、本当は詩人になりかたったんだ」と言っていた宮森君に、帰国してから、谷川俊太郎さんの詩が書かれた『クレーの絵本』を買って送った。
素敵な文章が書かれたお礼状をもらった。そして、感激の電話までもらった。

棺に横たわる宮森君に参列した1人1人がお花を供えた。手渡されたのは、鮮やかな南国の花だった。
外にでて出棺を待った。ハワイの曲が流れる中、建物から棺がでてきた。その途端、風が強くなった。青山葬儀所の緑が大きく揺れた。ゆったりとしたその揺れ方は、南国の椰子の木を思わせるものだった。

帰りに渡されたお礼の品は、スイートなパッケージに包まれたシャンプーとコンディショナーだった。「いつも髪はきれいでいてね」、宮森君からのそんなメッセージがきっと込められてる。

ヘアーメイク界の大御所として、大手新聞でもその死が告知された宮森隆行さんだけど、CLIPの杉山佳男さんのアシスタントになったばかりの頃から知ってる私にとっては、彼がどんなに成功し、有名になっても、相変わらず「宮森君」だった。

訃報を聞いて、CLIPのマネージャーのももさんに電話したら、「宮森君が独立したばかりのとき、のんちゃんがすぐに彼に仕事を頼んでくれたときのこと、よく覚えてるわよ」と言われて、電話を切ったあと泣いた。
私は「そのとき」のことをまったく覚えていない。「宮森君は覚えててくれてる?」と、本人に聞いてみたかったな。

独り立ちした宮森君は、その後、当時女の子の間で爆発的な人気だったマガジンハウスの雑誌「オリーブ」で活躍するカリスマ的な存在になった。

宮森君の作る世界は、少女のファンタジーであり、少女のアヴァンギャルドだった。
現実とはちょっと離れた世界に女の子を連れていってくれるヘアーとメイクの世界だった。
そんな宮森君の最後の大仕事は、自分の「お別れの会」のディレクションだった。
宮森君が好きな花、好きな音楽での演出、宮森君は、満足しているだろうか。
それとも、「もっと」を目指し続けていた宮森君のことだから、「もっとこうすればよかったかな」なんて思ったりしてるんだろうか。

お別れの会はとても素敵だったけど、バリバリ現役で活躍中の、生きていればこれからも活躍していっただろう、同時代を一緒にやってきた人の死は、やっぱりとても悲しい。
長らく会ってなかった宮森君と、久しぶりに会うのが、こんな形だったことが残念でならない。
でも、私がメッセージを書いたポストカードの絵の男の子のように、こっちからあっちへ、ひょいと橋を渡って行ったにすぎないことなのかもしれない。
そして、あちら側に行っても、メイクボックスを開いて、そこにいる人たちをきれいにする宮森君かもしれない。
こっち側にいる私は、可愛い物を見つけるたびに、宮森君のこと、これまで以上に思い出すことにしますね。
やさしい宮森君、ありがとうございました。
そして、頑張り屋だった宮森君、ひとまず、お疲れ様でした。
どうか、安らかに。

天国で、みんなから寄せられたメッセージを、照れながら読んでる宮森君の表情が目に浮かびます。