わたしと明日のおしゃれなカンケイ

スタイリスト&エッセイストの中村のんの日々、印象に残った出来事。

トシちゃんへの感謝をこめて

「トシちゃん」の愛称で親しまれてきたプラスチックス中西俊夫さんが、2月25日、天に召されました。
今年の1月13日、トシちゃん61歳のお誕生日にアップした、私が運営するサイトの「70年代原宿、思い出のあの店、あの場所」にトシちゃんが寄せてくださったエッセイを、哀悼の意をこめて、貼り付けます。
http://www.nonnakamura-presents.com/relayessay/cafe/toshio-nakanishi/

執筆をお願いしたのは、昨年のクリスマス、退院されたのを知ったときでした。
その三か月前の9月に、自分が食道癌であることを、フェイスブックで告知したトシちゃんは、その後の闘病の様子を毎日のように、フェイスブックに投稿し続けていました。

トシちゃんの様子を遠巻きに知っていながら、あまりにもデリカシーのない行為かと大きく迷いながらの思いきってのお願いでしたが、fbのメッセージでお願いを送った途端、「書きたい!ありがとう!」というお返事が返ってきました。
ただし、「今はまだちょっと体力的にきついので、もう少し元気になったら書きたい」とのことでした。
執筆に体力が必要なことは、私も身をもって重々知っています。なので
「もしよかったら、fbのメッセージに、つぶやきを送ってくれたら、それをこちらでまとめますよ」とお返事をしたら、「了解。ではつぶやきで」とすぐに返事があり、それから年末までの毎日、朝から夜中まで、fbのメッセージで連続して送られてきた「つぶやき」の数は何十にも及びました。
途中、「どこどこにあった何々の名前は何だったっけ?」といった質問もあったり、答えると「そうだ!何々だったね」といったおしゃべりをしながらの原稿のやりとりでした。
つぶやきを繋げてみたら文章として完璧で、私が手直しする部分はまったくありませんでした。

年末の約1週間、トシちゃんと毎日交わしたメッセージのやりとりの中には、
トシちゃんの生年月日が1956年の1月13日、私が1956年の1月14日の一日違い、私の娘の誕生日がトシちゃんと同じ1月13日とわかったことから、
「奇遇!縁だね!」なんてトシちゃんからメッセージがきたりしていました。

原宿デビューの時期が同じ頃だった、同じ学年、同じ東京っ子のトシちゃんとは、70年代から、同じ場を共有していることは何度もありましたが、挨拶を交わす程度で、親しくしてきたことはまったくありませんでした。
共通の友達が何人もいたものの、テクノが台頭してきた時代にキラ星のように現われたアーティスト集団のバンド、プラスチックスは、私にとって「最高におしゃれな時代のスター」であり、隣にいても気軽に声をかけられる存在ではない感じでした。

そのトシちゃんと「奇遇!縁だね!」と言葉を交わし合ってから2か月後に届いた訃報に言葉もありません。


昨年2016年の1月29日、トシちゃんも私も十代の頃から大好きだったデヴィッド・ボウイが1月10日に★になったことを受けて開かれた追悼の意の「デヴィッド・ボウイナイト」では、ボウイの曲を振り付きでキレッキレで歌ったトシちゃんでした。

「いなくなっちゃって悲しいね」「うん、悲しいね」
シンプルな言葉を交わし合っていたあの日が、つい昨日のことのような
遠い昔のことのような気もしている今ですが、トシちゃんはきっと、もうすぐボウイに会えるんだね。あちらの世界には国境もなく、お金もないから旅費もいらなくて、「思えば目の前に現れる」と、昔、何かの本で読んだことがあるから。


宣告されたその日に、自らの病気を公表したトシちゃん。
頬がこけてゆきながらも、毎日の中で、それでも楽しんでいる写真をフェイスブックに投稿し続け、家族や友達への愛と感謝を発信し続けていたトシちゃん。

エッセイを書き終わって、「ありがとうございました」とお礼を送ったら
「こちらこそありがとう。とても楽しかった」と書き送ってくれたトシちゃん。
そして、私へのメッセージのトシちゃんの最後の言葉は
「何かに繋がってゆくと良いですね。残していかないと。」でした。

「残していかないと」というトシちゃんの言葉を胸に、トシちゃんの最後のエッセイをどうかお読みいただけますようお願いいたします。
http://www.nonnakamura-presents.com/relayessay/cafe/toshio-nakanishi/


1日違いのお誕生日の同時代を遊んできたトシちゃんからもらった「残していかないと。」という言葉、永遠に胸に刻み、響かせ続けます。

どうか安らかに。