わたしと明日のおしゃれなカンケイ

スタイリスト&エッセイストの中村のんの日々、印象に残った出来事。

映画『20センチュリー・ウーマン』と、私にとっての1979年

公開前から気になってた映画『20センチュリー・ウーマン』をやっと観た。
舞台は1979年。

今年の5月、原宿の東急プラザ表参道原宿で70年代の写真展のディレクションを終えたばかりの私は、今現在、7月15日から開催される80年代の写真展の準備に大わらわの最中。そんな理由もあって、70年代と80年代の狭間ともいえる1979年という年は、大きく興味がわく年。


脚本・監督のマイク・ミルズはこの年、主人公の少年、ジェイミーと同じ15歳で、1999年、21世紀を目前に亡くなった実母との関係をモデルとした、いわば私小説的な「母と息子の物語」なのだが、この年、1979年に23歳だった私としては、ストーリーを追いながらも、「あの頃の自分」にワープする気持ちになった。

その重ね合わせの気持ちから、「あの頃」について書いておきたい。


1979年、この年の11月に私は結婚した。23歳だった。
「結婚」はまさしく私にとって「人生の分岐点」であったわけだが、1979年という年は、振りかえると、音楽的にもファッション的にもカルチャー的にも価値観的にも「時代の潮目が変わった時期」といえるだろう。

籍を入れる前から半ば同棲の感じで夫となる人と共に住んでいたのは、目黒の外人用マンション。フィフティーズのインテリアで、大家さんが内装を自由に変えさせてくれた。
上にカメラマンの伊島薫さんが住んでいた。
我が家はダイニングキッチンの床をペパーミントグリーンと白の市松のPタイルに張り替え、リビングの壁をピンクに塗り替え、
伊島さんの家は天井を取り払って配管をむき出しにして、床をフローリングに張り替えた。
その作業を我が家は夫が。伊島さんの家は夫が手伝った。

我が家には、ニューヨークでパンクをやっていた夫の友達が帰国して居候し、改造した押入れを自分の寝床にして、(仕事もバイトもしていなかったので)一日中パンクやニューウェイブのレコードを聴いていた。

私も伊島さんもその頃は駆け出し。どちらかの友達が遊びに来ると、どちらかの家に集まって、一緒に音楽を聴いたり、場合によっては、靴下の足で(笑)何時間も踊ったりしていた。

映画の中の他人とのルームシェアの様子や、元ヒッピーのウィルアムが家の修理を手伝っているうちに、やがて同居人になる経緯や、二階に住む23歳の女の子アビーがパンクの曲をかけて、家の中で縦ノリで踊ってる姿などに、あの頃の自分たちの楽しくもいい加減な生活ぶりが、まざまざと蘇ってきた。

うちに(勝手にw)居候してたヤツがいつも(私たちの)部屋に大音響で流していたのはクラッシュやピストルズスペシャルズトーキング・ヘッズ等々。彼から知った曲や音、ミュージシャンやグループの名前は山ほどあった。70年代に聴いてきた音とは明らかに違う種類のものだった。
パティ・スミスとのエピソードを語ったり、「ノミおじさんがね」なんて言っていたことを覚えている。
パティ・スミスクラウス・ノミとも知り合いだったのかもしれない。
※ちなみに、クラウス・ノミは1983年にエイズにより39歳で死亡。「エイズで亡くなった最初の著名人」とも言われている。

映画の中の母親のナレーションで「この頃は、エイズもインターネットも知らなかった」といった感じの台詞がでてくるが、たしかに、1979年当時は、その数年後に社会問題となる「エイズ」に関して、誰もその単語さえ知らなかった。

映画ではトーキング・ヘッズが象徴的に使われ、その他にも「ニューウェイブ」とカテゴライズされていた曲がふんだんに使われている。
アネット・ベニング扮する1924年生まれの55歳の母親は、それらの音に困惑する。
赤毛の女の子は「DEVO」と書かれたTシャツを着ていたが、当時、私も着ていた。


うちに居候してたヤツが「のんちゃんは好きだと思うよ」と勧めてくれたのが、エリカ・ジョングの『飛ぶのが怖い』だった。
世界中で600万部ともいわれるベストセラーになったこの本は、アメリカで1973年に出版され、日本語訳になったのは1976年のことだった。
「女性の性」が赤裸々に語られるこの本の中には「ヴァギナ」という単語が頻繁に登場した。
映画の中で、「地球に落ちてきた男」のボウイを見て髪を赤く染めたというカメラマンの24歳のアビーが、いろんな世代の男女が並ぶ食卓で、一人一人に向かって「生理」という言葉を(叱咤激励しながらしつこくw)言わせるシーンにも、23歳だった自分の当時の意識を重ね合わせて、懐かしいというより、笑っちゃった。


この映画に登場するメインキャスト5人の、1979年というこの年においてのそれぞれの年齢と生きてきた時代背景が、とても興味深かった。


1924年生まれの55歳の母親は「私たちの時代は、煙草を吸うことが粋だった」と、煙草を片時も離さないが、一応「健康」を気にしてセイラムを吸い、ビルケンシュトックのサンダルを履いている。(同じ理由でセイラムを吸っていた友達はたくさんいた)この頃は「健康ブーム」の始まりの時代だったのだ。ちなみにこの母親のアイドルはハンフリー・ボガード



年齢不詳のウィリアムスは東海岸でコミューン生活をしていたことや瞑想が趣味なことでもわかるように、明らかにビートルズ世代であり、ウッドストックフェスティバルなんかにも行ってたかもしれない。
お金のない男だと思うけど、車や家の修理が得意で陶芸をやってる芸術家肌で、その上、なかなかセクシーで、「女に苦労したことはない」と言う台詞に、たしかに70年代ならではの「モテの条件を備えてる男」と納得(笑)。



17歳のジュリー役のエル・ファニングがまとった空気感は、ソフィア・コッポラとタグを組んできたのも納得の、まさにあの時代そのもの。
セラピストを母にもつジュリーの心と体の葛藤を観ながら、当時私が親しかった「優秀な親をもっていた」女友達何人もの顔とエキセントリックだった当時の行動が浮かんできた。



1964年生まれのいつもスケボーに乗って移動している15歳の少年ジェイミーを演じた、実際には2001年生まれのルーカス・ジェイド・ズマンがインタビューで答えてる言葉が興味深かった。
「ジェイミーを演じる上で、ぼくがなかなか共感できなかったのは、パンク・ミュージック的な、自己破壊的な部分。(略)だから、監督が送ってくれたドキュメンタリーを観て、なぜ当時の若者たちがこういうことをしたのか、というのを少しは理解できたんだ。(略)資料のおかげで、当時の感情的な空気が少しは理解できたと思うんだ。」


人は時代によって作られ、時代もまた人によって作られる。
70年代後半の若者たちのパンキッシュな感情は、若者ならではの普遍的なものではなく、政治的社会的背景もあった上での、あの時代ならではのものだったのかもしれない。

また、「その年、あなたは何歳でしたか」
この答えによって、思い出す文化、語る言葉も違うと思う。
同じ時代を過ごしていても、50代か20代かでも違うし、細かくは、15歳だったか、二十歳だったかでも違うのではないかと思う。
けれどやっぱり「その時代に青春期を過ごした」、時代から受ける影響(とくに音楽、ファッション、カルチャー)はそれが絶大だと思う。


1979年、東京で過ごしてた23歳だった私と、カリフォルニア州サンタバーバラに住む24歳のグレタが、同じことに興味をもって、同じカルチャーや価値観を共有していたこと、会えばきっと共感し合えていい友達になれただろうと、映画であることを忘れて思ってしまいました(笑)

ちなみに映画の中で象徴的に使われていた車はビートル。
我が家もこの当時ビートルだった。
アメリカに移住するという夫の友達から(たしか)2万円で譲り受けたポンコツだったけど。

この映画に関しては、書きたいことが限りなくあるけど、ここでやめときます(笑)。

最後に。
パンタロンが終わって、ピタピタパンツになった頃のファッションもとてもリアルで、どれもこれもぐっときたこと。
母親役のアネット・ベニング(実生活ではウォーレン・ベイティのパートナーであり、四人の子どものお母さん)が首のシワやクシャクシャの髪も含めて、素敵な加齢な雰囲気を醸し出していて、リアルな演技の素晴らしさはもちろんのこと、とっても魅力的だったことを書き加えておきます。