わたしと明日のおしゃれなカンケイ

スタイリスト&エッセイストの中村のんの日々、印象に残った出来事。

小夜子さんの魅力と魔力

12月3日、一日限定のイベント、山口小夜子没後10年追悼上映会「宵待月に逢いましょう」がスパイラルホールで開催されました。

松本貴子監督作『山口小夜子 氷の花火』の2回上映。
昼の部ではそれに加えて『月 小夜子/山海塾』の上映と、トークゲストに(元)資生堂のビューティディレクター富川栄さん。
午後の部では『T-CITY』の上映と、写真家の下村一喜さんとファッションデザイナーの丸山敬太さんを迎えてのトークショーが行われました。

そして、ホールの手前のラウンジには、資生堂のポスターをはじめ、錚々たる写真家たちが撮影した小夜子さんの写真が展示されました。


染吾郎さん、横木安良夫さんなど、私が作った「70’HARAJUKU」の参加カメラマンたちの写真も展示されること、そしてこの写真集も物販コーナーに置いていただけることなどもあって、そして何より、十代の頃から憧れていた小夜子さんの大事なイベントに微力ながらもお役に立ちたい一心で、私も朝からお手伝いに入っていました。

染吾郎さんが撮られた、写真集の表紙にもなった小夜子さんと私の師匠・ヤッコさん(高橋靖子さん)の写真も展示されました。


染吾郎さんは、他にもこの4点を出展されました。


横木安良夫さんがカレンダー用に撮られたこの写真のアートディレクターは横尾忠則さんだったそう。

小夜子さんが亡くなられたのは2007年の8月でしたが、下村一喜さんが2007年に撮影されたこの写真は、小夜子さんの最後のファッションフォトとなりました。


会場にずらりと並べられた資生堂のポスター。


このポスターの前で、嬉しくも貴重な記念写真を撮りました。

右にいるのは、雨宮君。今は大手広告代理店で立派なお仕事をなさっている方ですが、「のんちゃんは、僕の青春の1ページ」by雨宮、という関係なので、本当にしばらくぶりだったけど、会えばやっぱり今でも「雨宮君」。

雨宮君は、資生堂の広告の歴史を作られたカメラマンとして有名な(故)横須賀功光さんのアシスタントを7年にわたってやっていました(私がまだ駆け出しのスタイリストだった頃、雨宮君が日大芸術学部の学生の頃に知り合ったのでしたが、で、横須賀さんに雨宮君を紹介したのは私だったらしいけど、私は全然覚えてない(笑))。

一枚一枚のポスターを眺めながら「この撮影現場のほとんどにオレいたよ。どんなライティングをしたかもはっきり覚えてる」と言いながら、撮影現場での思い出を語ってくれました。

そのお隣は富川栄さん。資生堂はもちろんのこと、その他の撮影でも、小夜子さんのヘアーメイクのほとんどを手がけてこられた、小夜子さんがもっとも信頼していたメーキャップアーティストさんでした。

そして、そのお隣は、資生堂のアートディレクターだった天野幾雄さん。
横須賀さんと組んで、小夜子さんの広告の数々を生み出してこられた方です。
私の師匠・ヤッコさんとのお仕事も多く、私もアシスタント時代から、そしてフリーになってからも可愛がっていただきました。

小夜子さんとの思い出を山ほどもっている御三人と、この場で再会できたことはとても嬉しいことでした。

そして、天野さんと松本貴子監督のツーショットも撮りました。
背後にちらりと見えるおかっぱの女性は、アーティストのマドモアゼル・ユリアさん。富川さんのトークの時に、富川さんに(小夜子風に)ヘアーメイクされた姿でゲストとして登場しました。

広いスパイラルホールでの上映は満席。
写真展会場にも大勢の人が詰めかけました。

会場のお手伝いに入って本当によかったなと思ったのは、若い人たちと話しができたことでした。
「『山口小夜子 氷の花火』は、21回観に行きました」と言う若い男性。
「とにかく小夜子さんが好きで好きで」と、おかっぱに小夜子メイクで来場された若い女性の姿も何人も見かけました。
小夜子さんが活躍されていた時期をオンタイムで知らなくても、小夜子さんの魅力と魔力が、今なお、若い人たちの美意識に訴えかける存在であることがダイレクトに伝わってきました。


私がこの映画を観たのは4回目でした。
小夜子さんの生前の映像、小夜子さんを知る人たちへのインタビューによって構成されたこの映画から小夜子さんの多面的な人間性を知ることができますが、観るたびに違う箇所が印象に残ります。

そして今回、松本貴子監督、ヘアーメイクの富川さん、写真家の下村一喜さんがトークで語られた小夜子さんのエピソードによって、ますます小夜子さんの多面性を知ることができましたが、知ると同時に、小夜子さんのミステリアスな印象がさらに深まったような気持ちにもなりました。

「小夜子さんは汗かきだった」by富川さん。←意外!
隣の席でトークを聞いていた雨宮君に「小夜子さんが汗かきだったって意外だね」と言ったら、「うん、意外だね」と。何度も撮影現場にいた雨宮君でも知らなかったこと。おそらく小夜子さんは、メイクを施し、カメラ前に立った途端に、完璧に汗を制していたのでしょう。

「小夜子さんは長電話だった。夜の8時にかかってきたとるすると、話を聞いているうちにチュンチュンいうスズメの声が聞こえてきた。こっちはもう眠たくて電話を切りたいのに、小夜子さんは切らなかった」by松本貴子監督。←意外!

そして、松本さんと下村さんは、「小夜子さんって、ほとんど寝てなかったんじゃないかな」「うん、きっと寝てなかったと思う」←意外!
あれほどストイックなほど「美」にこだわった人だから、美容にとってもっとも大事な睡眠はたっぷりとるように心掛けてらしたはずと勝手に思っていました。

そして「小夜子さんは引きこもりだった。仕事にないときは、ずーっと家に引きこもって本を読んでたんじゃないかな」by下村一喜。
「小夜子さんは好奇心旺盛で、芝居でもなんでも、こんなものまで?!というものまでよく観に行ってた」by丸山敬太。←どっちもわかる!

オンタイムで小夜子さんのデビューからビッグになってゆくまでを観てきた(メディアを通して。お仕事をご一緒したのは資生堂のCMで一度だけ)私にとっても、ますます興味がわいた今回の追悼イベント。
若い人たちも、目に心に、多くの小夜子さんを焼き付けて帰られたことと思います。


70年代、世界に東洋の美を轟かせた山口小夜子
「あんな人は二度と現れない」
「唯一無二の誰も真似できない個性と美しさ。あんなモデルはこれからも出現しないだろう」
多くの人たちがそう言います。

外見だけでなく、内面的にも、その「美へのこだわり」が語る継がれるモデル。

小夜子さんが亡くなられたとき、築地本願寺で行われた「お別れの会」に参列した帰り道、「小夜子は死んだんじゃない。月に帰っただけ」と思いましたが、昨日の追悼イベントが行われた日のお月様は、普段より一割増しの大きさ、三割増しの明るさだったそうです。
この日を選んで、一日限りのイベントを開催された松本貴子監督の小夜子さんへの愛とリスペクトに感動しました。

(スタイリストの大先輩・いちだぱとらさんが撮影された昨夜の月を借用します)

小夜子さんが生まれたときに、ご両親がその赤ちゃんを「小夜子」と名付けたこと。
そして、横浜のお墓が目の前にあるお家に生まれ育ったこと。
その時点から、小夜子が小夜子になることは運命つけられていたのではないかな、
大きなお月様を眺めながら、ふと、そんな風に思いました。

ヤッコさんと小夜子さん

この度、「毎日ファッション大賞2017」で、鯨岡阿美子賞を受賞された私の師匠であるヤッコさんこと高橋靖子さん。

昨日11月29日、「毎日ファッション大賞」の授賞式&パーティが開催され、その会場となったEBISU303に、ヤッコさんに拍手を送るために行きました。


今年35年目を迎えた毎日ファッション大賞ですが、正直言って個人的には、日本のスタイリスト第一号であるヤッコさんの受賞は遅すぎるくらいと思っています。(スタイリストという職業を、日本に根付かせた人として、20年以上前に受賞されててもよかったのではないかと)。
でも、ともかくおめでたいことであり、ヤッコさんはスピーチで、しきりに「スタイリストは自分一人でできる仕事ではない。各分野のスタッフが集まってグループとなって作り上げる仕事」ということを仰っていました。そして
「この賞は、明日からまた頑張れよ、という賞だと思っています」と。
御年76歳、スタイリスト歴50年というキャリアを経たあとの受賞は、20年前に受賞されてるよりも、もっともっと凄いことで、今がふさわしかったと言えることなのかもしれません。

そして私個人としても、このタイミングの受賞には感慨深いものがありました。

いろんなところで書いたり、取材のインタビューで語ったりしてきていますが、私がヤッコさんと出会ったのは、17歳のときでした。「私がヤッコさんに憧れる」、そこから始まった関係でした。
そして、当時、私が憧れていたもう一人はモデルの山口小夜子さんでした。

ヤッコさんのアシスタントをアルバイトで始めたのは桑沢デザイン研究所に入学した年、18歳のときでした。
学校のロビーの掲示板に「デザイナー・池田貴雄のファッションショーのフィッター」の募集が貼られていて、対象はドレス科の学生だったけど、ファッションショーの舞台裏を経験してみたかったのと、山口小夜子さんがモデルとしてでることを知って、グラフィック専攻の学生だったけど、事務の人にお願いして、お手伝いに参加させてもらうことにしたのでした。

小夜子さんは当時24歳、世界的なスーパーモデルになる直前だったと思います。
その後、何年も経ってから、「小夜子のイメージ」を不動のものとして確立された小夜子さんと資生堂のコマーシャルのお仕事でご一緒したときには、現場にもメイクした顔で来られ、とても近寄れない雰囲気の方だったけど、18のときに初めてお会いした小夜子さんは、すっぴんで楽屋に来られ、その素顔を見て、当時人気アイドルだったキャンディーズ伊藤蘭ちゃんと似てる、素顔は妖艶というよりカワイイのね、と思ったことを今も鮮烈に覚えています。

フィッターに入る前日、ヤッコさんに「明日、小夜子さんにお会いするんです!」と興奮気味に言ったら、「あら、そう、だったら、小夜子さんに借りてる本があるから返しといて」と、『ジェニーの肖像』の文庫本を渡されました。
楽屋に入って、どのタイミングで渡せばいいのか、ドキドキしながら、あ、そうだ、と思いつき、フィッターの担当を決めていたショーのスタイリストとして入ってらした中村理香子さんに「私、高橋靖子さんから小夜子さんにと預かってるものがあるので」と申し出たら、「そうなのね、ではあなたは小夜子さんの担当に」と言われて、嬉しさにドギマギしたのでした。

ショーが始まる前に、無事、小夜子さんに本をお渡しし、小夜子さんはとてもやさしくしてくれました。
「これ、あなたに預けておくわ」と渡されたKENZOの刺繍の小さなポシェットに入っていたのは煙草のチェリーで、「小夜子さんとチェリーはよく似合う」と思ったことも印象深く残っています。

ヤッコさんと小夜子さんは、私の青春の思い出の中で、半ばセットになっている存在ですが、そんなお二人が原宿レオンにいるところを撮った染吾郎さんの写真が、私が2015年に作った写真集『70'HARAJUKU』の表紙になったことは、私にとって、本当に特別なことなのです。


そして、12月3日(日)には、「山口小夜子没後10年追悼上映会『宵待月に逢いましょう』」が表参道のスパイラルホールで一日だけのイベントとして開催されます。

生前の小夜子さんと親しくされてきて、映画「氷の花火 山口小夜子」の監督でもある松本貴子さんの主催です。
写真集からのご縁、そして、「氷の花火 山口小夜子」の冒頭で小夜子さんとの思い出を語られているヤッコさんとのご縁から知り合った松本貴子監督からお声かけいただき、私もこの日会場に展示する写真集めのお手伝いをさせていただいています。

そして、スパイラルの1階では、11月27日〜小夜子さんの関連グッズが販売されていますが、そのひとつとして「70'HARAJUKU」も置かれています。とても光栄なことです。



18のときに憧れ、煙草を渡されただけでもドキドキしていた小夜子さんの没後10年の記念すべきイベントに微力ながらも関わらせていただくことになるとは、40年前には、いえ、一年前にだって思ってもみないことでした。

これは、ヤッコさんのアシスタントをしていた頃のヤッコさんとの写真。18か19のとき。
おかっぱはもちろん、小夜子さんに憧れてしていた髪型でした。
髪型を真似したところで、小夜子さんみたいになれるわけはないけれど、白人やハーフにみんなが憧れていた時代、小夜子さんの登場は、「日本人として生まれた外見に自信と誇りをもたせてくれる」といった意味にも大きな影響をうけたものでした。

「毎日ファッション大賞受賞者」の記事に大きく掲載されたヤッコさんの写真は、デヴィッド・ボウイ山本寛斎さんと一緒にいるところでしたが、小夜子さんが生前にもっとも深い縁をもたられたデザイナーも寛斎さんでした。

57歳という若さで天に召された小夜子さんでしたが、
ヤッコさんの受賞に天国から拍手を送ってらっしゃることと思います。


スピーチで「明日からまた頑張れよ、という賞だと思っています」と仰ったヤッコさんには、本当に、これからもずっとお元気で活躍していただきたいと、心から思います。

素敵な素敵な還暦婚!!!

10月7日(土)、とっても素敵な結婚パーティに参加しました。

花嫁のむとうちづるさんとは、二十年以上にわたって、スタイリストとヘアーメイクとして何度も仕事を一緒にしてきたばかりでなく、プライベートでもとっても仲良くしてきました。
2年前、まわりをあっと驚かせるまさかの入籍をした彼女でしたが、還暦のお誕生日を迎えるのと同時に、遅ればせながらの結婚披露パーティを開催しました。

ウエディングの白いドレスと、還暦の赤いドレス。
どちらも素敵に着こなしてる還暦の花嫁にみんなため息。
9歳年下のダーリン(むとうさんも友達も全員が「ダーリン」と呼んでいます)のスレンダーなスタイルにピッタリなコーディネートも素敵でした。


会場は六本木のスタジオ。
普段は無機質な空間が、花千代さんがアレンジしたお花とライティングによって、見事に豪華な会場になっていました。

花嫁のブーケも花千代さん作。

スタジオの入り口に飾ったお花も。

花千代さん自身も会場を華やかに彩る存在でした。

新郎も新婦も実は初婚。
私は二人の出会いのときから知っていますが、二人の出会いは、なんと官邸前の脱原発デモ。出会いの場には私だけでなく、大勢の友達がいて、みんな、二人が尊敬し合い、愛を育む様子の目撃者として二人を見守ってきました。
その仲間や、仕事の仲間、遊びの仲間たちが、パーティのスタッフとして大活躍している様子にも心があたたまりました。

司会をされた岡元あつこさんと山田さん。

会場の様子をずっと撮影されていたカメラマンの池谷友秀さんを遠くから眺めて「あのカメラマン、素敵〜!」と花千代さんと武川さんがうっとしていたので(笑)池谷さんを呼んでご紹介しました。

スクーターズのギター&ヴォーカルのターバンは二人に歌をプレゼント。

DJをやられた仲良しコンビ、イラストレーターの那須慶子さんと尚ちゃん。

パーティ全体のディレクターとして大活躍だった正野さん。



招待客は、新郎新婦の年齢からいってもそのほとんどがover50だったけど、年齢なんて関係ないって感じに、自分の個性を生かしたオシャレをしている人が山ほどいて、日本の大人たちも変わってきたなーと改めて思いました。




最後に池谷さん撮影で、全員の記念写真を。
お祝いに集まった全員が、最高に幸せなパワーをもらえる結婚パーティでした。

むとうさん、そしてダーリン、これからもずっとずっと末永くお幸せに!
素敵な人生を見せてくれてありがとう!


結婚適齢期って、世間が決めるものじゃない、自分が決めるもの。

魅力もパッションも、いくつになっても自分の気持ち次第。

出会いのチャンスの場は意外なところにあったりする。
そして、計算なしで、取り繕わないで、「素の自分」でいることが本当の幸せにつながる道。

なーんてことを、パーティに参加した若い人たちは(若くない人も(笑))二人から教えられちゃったんじゃないかな。

「原宿」をこよなく愛するドイツ人のヤーナさんの取材を受けました。

先月末、東急プラザ表参道の『OMOHARA写真展』の会場で、私の顔を見るなり、パッと顔を輝かせた外国人の女性と出会いました。「もしかして…」と話しかけられ、「はい、中村のんです」と答えたら、大感激してくださいました。

ヤーナさんは社会学者で、「原宿」を研究テーマにされているそう。
友達から写真集『70’HARAJUKU』を教えられたときには狂喜したそうで、その著者である私に偶然会えたことをものすごく喜んでくださり、私も嬉しくて、何度も握手し合いました。

名刺を交換し合い、後日、ヤーナさんからメールで取材を申し込まれ、昨日、ヤーナさんとお会いしました。
まずは、ヤーナさんが持参された1973年に刊行された原宿特集のアンアンに感激して見入ってしまいました。
中野や神田の古本屋、国会図書館などにも行って、古い原宿の資料を探し回っているそう。

HELP!、BIGIのネオン、バズショップ、等々、懐かしすぎる!

※左下はベルボトム姿の菊池武夫さん。今、見てもカッコイイ!


ティーンエイジャーだった私がワクワクしながらくまなく見ていたページを、80年代生まれのドイツ人のヤーナさんが同じようにワクワクしながら読んでいることが面白いです。「ここに出ているショップをリアルに見ていたことが羨ましいです」と言われました。

このアンアンの表紙になっているマギー・ミネンコは、「70’HARAJUKU」の中でもレオンの店内にいる写真があるのよ、と見せました。

私が取材される側だったはずが、ドイツ人のヤーナさんが、なぜそれほどまでに原宿に興味があるのか、ドイツのファッション事情はどんな風なのか、逆に私が取材しまくってしまいました(笑)

おばあさまがKENZOの服などを置いてるセレクトショップをやられていて、子どものときから服が大好きだったヤーナさんが原宿に興味を持ったのは15歳のとき。
青木正一さんが作られている雑誌「FRUITS」を見たのがきっかけで、
遠く離れたドイツのデュッセルドルフからずっと原宿に憧れていて、念願かなって初めて訪れたのは2006年だったそう。

「ドイツにも日本と同じように、グッチやディオールといったラグジュアリーブランドが並んだ通りはあります。でも、そこで買い物するのはごく一部のお金持ちだけです。
郊外にはZARAやH&Mといったファストファッションが入ったショッピングモールもあります。どこの国にもある同じような感じです。
若い人たちのほとんどはファストファッションを着ていますが、ドイツ人は着るものにお金をかけないので、ZARAでも高いと言っています」

「日本には、ラグジュアリーブランドでもないファストファッションでもないミドルがたくさんあって、そこが素晴らしい」とヤーナさんは言います。

「ドイツでは『ファッションが大好き』というと、それは…えーと、日本語だとなんていえばいいのでしょう」と言って、ヤーナさんがスマホの辞書を示すと、そこには「軽薄。うわべ」という日本語が書いてありました。
「ファッションが大好きというと、自分の表面のことしか考えていない人と思われるような、そのような傾向があります」と。

そこで私は、先日、ドイツを取材したNHKのドキュメンタリー「ラスト・ドライブ」の中にでてきたドイツの家庭や病院やホスピスのインテリアがどれもこれも素敵だったことを話しました。
「そうですね、ドイツ人は、インテリアやガーデンにはお金をかけます。日本人みたいに何度も引越しをしたりもしないし、自分の国を作るような気持ちで、気に行った絵を飾ったり、部屋に合った家具をオーダーしたりして、居心地のいい部屋にすることには熱心です。
外食もバースデーとか特別なときだけで、基本的に、友達と集まるのも誰かの家であることがほとんどです。
ドイツで60㎡の部屋が借りれる家賃で、東京で借りれる部屋は8㎡くらいなのではないでしょうか」と言うヤーナさん。

「ドイツには若いデザイナーはいないのですか?」という私の質問に
「もちろんいます。でも、そういうショップは、たとえばある街に一件、別の街に一件、という感じで、その店を目的にその街に行くという感じなのです。
原宿はひとつの街に若い人向けのショップがこんなにたくさん集まってて、毎週来て、一日中いてもちっとも飽きない。本当に楽しい街です」と。

ヤーナさんは、ファッションの街として誕生したばかりの70年代の原宿にとても興味を持っていて、色んなことを私に質問して、メモしまくっていました。
「どうして、原宿が若者の街、ファッション街として、こんなに発展したのか、とても興味があります」と言い、
「でも、私が来始めたこの10年の間にも原宿はずいぶん変わりました。外国人観光客の数がものすごく増えた原宿が、これからどう発展してゆくのか、そのこともも興味があります」とも。

日本のファッション関係者も口々に言いますが、ヤーナさんも
「以前みたいに個性的なファッションの若い人たちを見かけなくなりました。みんなおとなしく普通になってきた」と言っていましたが
それでも、キャットストリートのショップに入って、店員さんと話すのは楽しく、ドイツからくる友達も、ドイツでは奇異に見られるファッションでも原宿では堂々と楽しめることを喜んでいると言います。

「とても素敵」と思っている原宿駅舎が建て替えでどうなるのか、ヤーナさんも心配していました。
「東京駅みたいにして欲しいですね」と言い合いました。
原宿に憧れて外国から来る人たちのためにも、原宿駅、素敵な駅にして欲しいと切に思います。

原宿の話題で終始した、ヤーナさんとの時間、楽しかった!

『OMOHARA写真展 80’s』@東急プラザ表参道原宿 9月10日までと会期が延長!

原宿の東急プラザ表参道原宿の開業5周年記念の特別イベント『OMOHARA写真展』の第2弾となる「80年代」は8月いっぱいの展示予定でしたが、好評につき、9月10日まで会期が延長されることが決定しました!


DCブランド全盛期だった80年代を代表するブランドとして、今回は原宿発のタケオ・キクチ、クリームソーダ、マドモアゼルノンノン、MILKをフィーチャーしました。

前々回のブログにタケオ・キクチの写真に関する裏話を書きましたが、今回は「MILK」について。

4階のエスカレーター脇に展示しているMILKの写真は、80年代末に原宿のクレストホールで行われたショーの写真です。


MILKは70年から90年代半ばまで東急プラザ表参道原宿のある場所にあったセントラルアパートの中に入っていましたが、意外なことに、そのときの外観の写真を一枚も所蔵していなく、MILKの安田あけみさんが仰るには、「あるのは染さんが撮ったあれだけ」とのことでした。
なので、染吾郎さんが撮影されたこの写真は、歴史的にもとても貴重なのです。
(ミルクに限らず、老舗のブランドたちが、昔の写真を案外とっていないことに、何度も驚いてきました)

4階には、私が東急プラザに入っているブランドからセレクトしてコーディネートした80年代リバイバルの服もトルソーに着せて展示していますが、行かれた方は、そこにあるボードにも注目してください。

リバイバルを説明するために、以前、見たことがあったコルセットがオシャレな女の子の写真の提供を伊島薫さんにお願いしたのですが、そのとき、伊島さんからきたお返事は、
「ひとみさんがOKならいいですよ」とのことでした。
即行「ひとみさんって誰?」と返信したら、「MILKの大川ひとみさん」と。
えー!この女の子、ひとみさんだったのー?!と驚きました。

許諾をいただくため、妹さんのあけみさん経由でひとみさんに写真をお送りしたら、ひとみさんも驚き、喜んでくださいました。


展示が始まってからの暑い日、MILKが今年オープンさせたエマージェンシークローズのブランド「VIXEN」のカフェにかき氷を食べに行ったら、ひとみさんとバッタリお会いしました。
会った途端、「あら、ちょうどのんちゃんとゆっくり話したいと思ってたところなのよ」と言われてうれしかった。

私はこのとき立教大学の学生さん(とびきり原宿に、しかも昔の原宿に興味のある)小林君と一緒に行ったのですが、24歳の小林君と(70代の)ひとみさんが違和感なく似合ったので感動のあまり、思わず「並んで〜!」とツーショットを撮らせてもらいました。

※「VIXEN」の情報→https://www.facebook.com/vixen-products-1170138109761830/


いかにもMILKのラブリーなテイストが盛り込まれた美味しいかき氷をいただきながら、ひとみさんに
「昔の原宿は楽しかったよね〜」と言ったら
「今も楽しいよ」というあっさりした答えが。
「うちに来るお客さんは若い子が多いけど、昔の若い子も楽しかったけど、今の若い子たちも話してると楽しいよ」と。
いや〜、ひとみさん素敵です!

藤原ヒロシさんからもネイバーフッドの代表・滝沢伸介さんからも、若く無名だった頃、いかにMILKのひとみさんのお世話になったかと、尊敬のこもったまなざしで語るエピソードを聞いてきましたが、そのことをひとみさんに言ったら、
「とんでもない!シンちゃん(滝沢伸介さん)にお世話になったのはこっちのほう。仕事を手伝ってもらったり、シンちゃんはセンスが良くて、性格も可愛くてね〜、本当に助けてもらったの。
ヒロシ君は本当にちゃんとしてるからね〜、礼儀正しくて、ヒロシ君はホント、ちゃんとしてる」と。
「伊島さんが、ひとみさんは止まったら死ぬのか、というくらい、いつもエネルギッシュだったと言ってましたよ」と言ったら
「今も動いてるよ。やることもやりたいこともいっぱいあるのよ。だから毎日が楽しいよ」と。
70年代からずっと今に至るまで、ひとみさんがカリスマ的な若者たちから慕われ、尊敬されてきた理由がわかったような気がしました。

私とも写真撮って、と言ったら、「だったらここで」と、ひとみさん指定の場所に移動させられました(笑)。ひとみさんとの初ツーショットです。
緊張気味の私はポーズ、キメすぎました(笑)


MILKの展示のコーナーには、私が描いたセントラルアパートのイラストも展示しています。

そして大事なお知らせ!
8月27日の日曜日、13時〜17時まで。東急プラザ表参道原宿の3階エレベーターホールで、写真集「70’HARAJUKU」の販売を行います。
もちろんワタクシ、立っていますので、原宿にいらっしゃる方は会いにきてくださったら嬉しいです!

しつこくも、会期は9月10日までの延長です!
http://omohara.tokyu-plaza.com/event/detail_4424.html

古民家で過ごした夏休み@福井

イラストレーターの松尾たいこさんと代々木八幡のお惣菜スタンド「ウエトミ」で偶然バッタリ会ったのは8月の頭のことでした。
福井県にあるたいこさんの別荘の「目の前が海」それを聞いた途端、遊びに行かせていただくことにしました。

歴史的建造物や、旧き良き建物がどんどん取り壊されている今、「温故知新」は、私にとってここ数年の重要なテーマでした。
福井には一度も行ったことがなく、たいこさんが何故福井に別荘を持つことになったのか、ほとんど情報のないまま行くことになった初福井でしたが、行ってみたら、まさに私が魂レベルで望んでいた場所であり時間だったことを感じました。

これがたいこさんの福井県美浜の別荘の外観です。


そして、話に聞いていた通り、目の前が海!
しかも、お盆シーズンだというのに、誰もいない海!
なんとも贅沢な環境!


部屋に上がった途端、あまりにも好みなインテリアだったので上がりまくり!

たいこさんの明るい色調のイラストもよく似合っていました。


着いた途端、この物件をどうやって見つけたのか、誰がリノベーションしたのか等々、質問をしまくってしまいました。

リノベーションしたのは北山大志郎さん。この地域で生まれ育って今もこの土地で土建屋さんをやられている方。
お年寄りが亡くなって、古い建物が空き家のまま放置されたり、解体されてゆくことに心を痛め、持ち主に掛け合うことからスタートさせ、リノベーションしてその良さを分かる人に活用してもらうプロジェクトを立ち上げたそう。
古き良き部分を残して、今的な新しいセンスを取り入れる、まさに「温故知新」の素敵さに感動しました。


お風呂場やトイレも撮りまくって、たいこさんに笑われたけど、昭和な香りのするタイルやガラスをそのまま残し、水回り部分を機能的でシンプルにリノベーションされたセンスは、我が家もこんな風にしたいと思うほどでした。
ターコイズブルーの便器は、滞在中、使うたびに嬉しかった(笑)






業務用の厨房を入れた使いやすい台所は、見た途端、やる気満々になる感じ。



ダイニングテーブルは、小学校の図工室で使われていた物だそう。
椅子も小学校の椅子です。
家具もすべて大志郎さんにセンスで選ばれたものだそう。


昔のガラスって本当に可愛くて美しい。
昔の日本家屋って、今よりもずっと、遊びが施されていたんだなーと感じます。





庭にこんなものが残されていることにもほっこりしました。


今や建てようと思っても(建材がなかったり、技術者がいなかったりという理由から)建てられない、でも放置されたままだったり、消えてゆく運命の日本家屋は日本中、どの地域にもあることと思います。
行政がお金をかけて保存するほどでもない、でも景観的にも歴史的にも貴重な建物を、どう保存してゆくか、今にどう生かしてゆくか、それは、民間人である個人の思いがあってこそだと思います。
今回の福井の旅では、そんな思いを持った北山大志郎さんと出会えたことが大きな収穫でした。

東京で生まれ育った田舎のない私に、素敵な夏を過ごさせてくださったたいこさんに感謝いっぱい!

ウエトミでバッタリだった偶然にもサンキューです!

↑ここでの出会いが十日後にこうなりました!↓


また行きます!福井。

『OMOHARA写真展 vol.2 80's』 始まりました!

東急プラザ表参道原宿5周年記念のイベント、『OMOHARA写真展』
5月に開催した70年代に続く80年代、今回もディレクションをやらせていただいています。

キービジュアルは、1988年に達川さんがヒステリックグラマータブロイド判のカタログのために撮影した写真。
原宿のど真ん中でのゲリラ撮影なんて、コンプライアンスだの何だのが厳しい今ではありえないことです。
後ろに見える、東急プラザの前身であるセントラルアパートにはバドワイザーのでっかい広告が。
一枚の写真から伝わってくる情報から、80年代という時代の色々が見えてきます。



今回の展示では、80年代という多様化の時代に原宿から起こったムーブメントを紹介しています。
DC(デザイナー&キャラクター)ブランドブームを紹介する中で、原宿にもっとも早い時期からあった、そして今も人気の四つのカリスマブランドをフィーチャーしました。
そのひとつ。タケオ・キクチ。


菊池武夫さんのブランド、メンズビギのファッションショーで伊島薫さんが撮影された写真を展示しています。
この写真は現在、ドアの大きさのパネルとなってタケオ・キクチに保管されていますが、撮った当時、伊島さんはまだ駆け出しのカメラマンで、メンズビギから依頼されて撮ったわけじゃないというエピソードを今回初めてご本人からお聞きしました。

メンズビギいた友達から招待状をもらって、買ったばかりの二眼のカメラを持って雛壇の前から三番目くらいに座っていたら、モデルたちの動きが普通のモデルみたいじゃなくて面白いからパチパチ撮っていたと。
モデルはプロではなく、ロンドンのストリートから連れてこられた若者たちでした。
後日、その写真を友達に見せたところ、その友達経由でタケ先生(菊池武夫さん)の目に触れ、「いい写真だね〜」ということで、メンズビギのイメージ写真として使われることになったそう。
モデルに素人を起用したり、まだ無名の駆け出しのカメラマンの写真を採用したり、タケ先生の審美眼とアイデアは流石だったと、40年近く経った今、あらためて感心すると同時に、「面白い」の感性だけであらゆるものが作られていた80年代の空気が懐かしいエピソードでもあります。



今年50周年を迎えるクリームソーダですが、意外なことに、社内には創立者のヤマちゃん(山崎眞行)一人の写真がまったくありませんでした。
「自分の写真を撮っておこうとか、山崎はそういう人じゃなかったから」とプレスの人の弁。
でも、ヤマちゃんの写真は絶対に展示したい。で、探し回ってたどり着いた写真は
1983年に三浦憲治さんが雑誌「平凡パンチ」のために撮影された、ピンクドラゴンの屋上にいるヤマちゃんの写真でした。今回はそのときのアザーポジから起こした写真を展示しています。

「山崎もテレながら天国で喜んでいることと思います」と、ヤマちゃんを今も敬愛し続けている若いプレスの方が言って下さったのがとても嬉しかったです。



80年代の頭は、表参道の歩行者天国竹の子族、ローラー族が社会現象を起こした時代でしたが、彼らの写真をちゃんと撮っていたカメラマンは意外にも少なく、写真を集めている途中で、「当時、毎週、彼らを撮りに行ってました」と言う女性カメラマンの渋谷典子さんと偶然出会えたおかげで、貴重な写真を展示することができました。



田村和一さんが撮られた若き日の、当時はパンクファッションだった藤原ヒロシさんのスナップも貴重です。

今年の2月に天に召されたプラスチックスのトシちゃん(中西俊夫)は、私が運営するリレーエッセイにも「すべては原宿から始まった」と書いてくれました。
田村さんは自分が撮ったチャーミングな若き日のトシちゃんの姿に再会して、言葉に言い表せない気持ちになられたようですが、今回、原宿の真ん中で、みんなに会えることを、トシちゃんはきっと喜んでくれてることと思います。


カメラマンたちも若かった頃、被写体に愛をもって撮られた若者たちの姿、
40年近く眠ったままだった写真、それらが東急プラザ表参道原宿という多くの人が行きかう場で、その時代を知らない人たちの目に触れることを、写真家のみなさんが喜んでくださってることも、とても嬉しいです。
右にいるのは、この写真を撮られた達川清さん。


日没後には、同館の6階、おもはらの森で、展示した写真が一挙に見れるスライドショーを上映しています。ビールをまったり飲んで夕涼みしながら是非!

80年代の写真展は、3階をメインに4階5階にも展示しています。
8月31日まで。
80年代の原宿にいた若者たちの熱気が伝わりましたら嬉しいです!