わたしと明日のおしゃれなカンケイ

スタイリスト&エッセイストの中村のんの日々、印象に残った出来事。

祝!『70’HARAJUKU』重版と 祝!ウドー音楽事務所50周年

嬉しいものが二ついっぺんに届きました!

ひとつは、私が作った写真集『70’HARAJUKU』が3刷となり、5月2日に発行というお知らせのハガキが小学館から。

写真集はなかなか売れないと言われているこの時代に、2015年8月に出版してから2年半弱で、このような運びになったことを、ご協力いただいた9人の参加カメラマンの方たちにご報告できることが本当に嬉しい!

担当編集の尾崎靖さんと企画段階から「ベストセラーよりもロングセラーを目指したいですねー」と言い合いながら作った本でした。
「持ってますよ」「買いました」という方たちにお聞きすると「人から勧められて」「友人からプレゼントされて感動したので、自分でも買って別の友人にプレゼントしました」と言う方が多く、人から人へという形で広がっていることに感謝すると同時に本当に嬉しいです。
これからも4刷5刷と、版を重ねてゆきたい本ですので、引き続きの応援、よろしくお願いいたします!

もうひとつ届いた嬉しいものは、『50th Anniversary 1967-2017 UDO (株)ウドー音楽事務所50周年社史』でした。
ブルーのBOX入りの真っ赤なカバー、素敵な装丁の立派な本!

1967年創業、2017年に50周年を迎えた(株)ウドー音楽事務所の社史は、「社史」を超えた貴重な「音楽シーンの歴史」を物語る内容で、ページをめくりながらワクワクしっぱなし!

巻頭のグラビアに『70’HARAJUKU』でも人気の染吾郎さんの写真が見開きで大きく使われています。

1972年、原宿のセントラルアパート1階の喫茶店、レオン店内の写真です(染吾郎さん自身も写っています)
「歌謡曲グループサウンズフォークソングから、ポップス、そして洋楽ロックへ。若者が支持する音楽に大きな変化が訪れた時代」
というコピーが添えられ、この当時、16歳だった自分と、自分を取り巻いていたこの時代の空気感を思い出し、大きく頷きました。

この本には、1967年〜2017年に至るウドー音楽事務所が関わった半世紀のコンサート歴が(頭が下がるくらい)丁寧に、つぶさに、記録されていて、ひとつひとつの写真も貴重ですが、各時代について書かれたテキストも、うまくまとめられています。
「1972年ー79年」には
「MTVもYou Tubeも存在しない頃。
レコードジャケットでしか見たことのなかった憧れのアーティストの登場に、湧き上がる歓声。轟くギターリフの爆音。
世界を熱狂させたビッグ・アーティストたちが、日本公演に照準を合わせてきた70年代。ロックコンサートの時代が始まった。」
とあります。

私と同い年の(二十歳からの友人でもある)ギタリストのCharから、
「ギターを始めた頃は、MTVもYou Tubeもなかったから、たとえば、クラプトンをコピーしたいと思っても、レコードを何度も何度も、擦り切れるくらい聴いて、想像しながら弾くしかなかった」と、幾度となく聞いてきましたが、
この本の中のどの時代の写真からもテキストからも、その時代時代の肉声のようなリアルが伝わってきて、まさに「現場」にいた「現場」を作ってきたウドー音楽事務所だからこそ作れた本だと感動で胸がいっぱいになりました!

そして、そのリアルな空気感を体感しながらティーンエイジから今に至る時代を送ることができた自分を心から嬉しくも感じました。

1ページ1ページめくって、走馬燈のようにいろんなことを思い出しながら、
愛する70年代の、愛する原宿の写真集は作った、
次は、自分が生きてきた時代、楽しんできたカルチャーを題材にした本を書きたいなー、という気持ちがムクムクしてきました。


『50th Anniversary 1967-2017 UDO』に、めちゃめちゃ刺激されました!
こんな素晴らしい本を作って下さったことに、そして贈呈して下さったことに感謝いっぱいです!


重要!^^; 画像をクリックしてAmazonへ!
『70’HARAJUKU』3刷は5月2日、発売です!
70’HARAJUKU (小学館SJ・MOOK)

『草笛光子のクローゼット』

草笛光子さんと広告のお仕事でご一緒させていただいたのは15年以上前のことでしょうか。お会いした途端、肌の美しさに驚きました。
撮影は数時間で終わりましたが、ポチ袋に入った心付を下さったことにも驚きました。スタイリストの私だけでなく、ヘアーメイクさんにも。撮影現場ではたくさんの芸能人の方とお会いしてきましたが、こんなことは初めてであり、その後も経験したことはありません。嬉しかったのはもちろんですが、手渡してくださったときの自然な所作の美しさにも感動しました。

その後、2010年に私が本を出版したとき、ラジオ番組でファッションに関して草笛さんとお話しさせていただきました。ラジオは姿が見えないけれど、カジュアルながらもゴージャスな、とーっても素敵なコーディネートで来られ、「素敵ですね〜」と言って質問したら、「そこらへんの洋品店で買った安物よ。いいなと思ったら、ブランドとか関係なく、すぐ買っちゃうんです」と仰っていましたが、とても安物を着ている思えない装いでした。

そんな思い出がある草笛光子さんがファッションの本を出されることを知ってすぐ、発売前にAmazonで予約しといた本が先週末に届きました!「草笛光子のクローゼット」(主婦と生活社)。ファッション雑誌より小さく書籍より大きい版の大きさ、紙、装丁も素敵です。

中年以上の女性を対象としたリアルファッション本が目白押しに出版されている昨今。
書店で時々チェックしながら、でも50代以上となると、リアルと夢の匙加減が難しいもんだな〜と思っていたところに出たこの本。写真を見た途端、「草笛さんのお部屋、なんて素敵!」と思いましたが、よく見たらオール横浜のホテルニューグランドで撮影されたものでした。でもその背景が、自前の服でもしっくりくる草笛光子さんの存在感。

そして、50代以上の人が自前の服を着てポーズしてる姿は、よほどの人じゃない限り、どこか無理があったり、場合によっては気恥ずかしい感じもするものですが、いかにも作られたシチュエーションでも、どんなポーズでも、84歳にして似合っちゃう、どころか、うっとりしちゃうのは、やはり、さすが、長年舞台に立ってこられた方の貫禄と文句なしのゴージャスさがあってこそ。

スタイリストやデザイナーが主役のこの手の本は、どうしてもファッション哲学や、読者への教えが入ってしまうけど、「ただ楽しんでる」その感じがストレートに伝わってきて「いくつになっても楽しむことが大事なのね〜」と単純に思わせてくれるところも気持ちよく嬉しいです。


「私は何十万もする高価なブランドの服も宝石も持っていません。ごくシンプルな服に、プラスチックのアクセサリー類をたくさんつけたりと、ないなかで工夫するほうがずっと楽しいです」by草笛光子

こういう台詞が説得力をもつ素敵なコーディネート!


巻末にまとめられた服にまつわるエピソードも素敵です。

越地吹雪さんが亡くなる1週間前、一緒に買い物に行って「今、買っておいたら、あとでよかったと思うから」と勧められ「こんな高価なのいらないわ」と言ったが「絶対に似合うから。私のおしゃれを信じなさい!」と強く言われて買ったロエベの革のコートの思い出等々。

「和」じゃなく、ファッションで、しかも「遊び心のあるファッション」で、日本にも高齢のこういう女優さんがいる!そのことを知るだけでも、なんだか嬉しくなる本です。

この本、きっとすごく売れると確信します!
(私は関係者でも、回し者でもありませんが(笑))

草笛光子のクローゼット

草笛光子のクローゼット

さようなら。ありがとう。幸福書房

代々木上原の駅前で、地元の人々に愛されてきた「幸福書房」が2018年2月20日をもって40年間の営業に幕を閉じました。

打ち合わせなどで幸福書房の並びにある「ファイヤーキングカフェ」や「ディッシュ」を使うことが多い私は、代々木上原に馴染みのない相手の方には必ず「改札をでて階段を降りたら、本屋さんのある側に出て、右に(または左に)」といった具合に場所を説明していたものでした。
若い頃からあった幸福書房は、消えることなんか考えられない、あまりにも「あってあたりまえ」のお店でした。

なくなると知った数日後、お店に行きました。
「さよならまであと5日」という看板に胸が締め付けられるような気持ちになりました。

さよならを惜しむお客さんたちの寄せ書きもありました。

店主のおじさんと弟さんは、次々にレジに来るお客さんにいつも通り、明るくキビキビ対応していました。
誰もが本を買いながら「寂しくなります」と言っていました。
もちろん私も言いました。
「仕方ないね。更新がきちゃったからね」とおじさん。

「閉めることが決まってから、来るたびに林(真理子)さんが泣くんだよね。こっちのほうがあっさりしたもんで」
林真理子さんの大ファンという方に言うそんな言葉も聞こえてきました。

代々木上原に住んでらしゃる林真理子さんは幸福書房に置かれたご著書1万冊にサインをしてこられたそう。
しかも本屋の娘として育った林さんにとって、幸福書房がなくなることは、身を切られるような思いであることは想像に難くないです。


この日はちょうど、幸福書房のおじさん、岩楯幸雄さんの初めての著書の発売日で、ホヤホヤの本がレジ前に平積みになっていたので当然買いました。
(長い間、何度も顔を合わせていたのに、おじさんのお名前が「岩楯幸雄さん」だったと初めて知りました)

挟んである栞に書かれた
「素晴らしいご縁に、心から感謝をしております。
長年のご愛顧、本当にありがとうございました。
2018年2月吉日
幸福書房 一同」
の言葉に泣きたい気持ちになりました。

閉店する日は予定が入っていたため、その前日にまた行きました。

読み終わったおじさんの著書を持ってってサインしていただきました。
「店のハンコも押しとくね」と。
明後日からは使う機会もなくなるハンコなのですよね。

そして、十数年前、私が初めての本を出版したとき、エッセイストの酒井順子さんがお祝いに下さった京都の和紙の老舗の便箋に書いた手紙をお渡ししました。あまりにも美しい便箋なので、もったいなくて使えなかったけど、本をこよなく愛する酒井さんが心を込めて下さった便箋、本をこよなく愛するおじさんに向けて、初めて使わせていただきました。

レジ前にはたくさんの人が並んでいました。
その一人一人と、いつもと変わらぬ明るさで話しているおじさん。

私は手紙をお渡ししながら、拙著「70’HARAJUKU」の出版直前にチラシとポスターを持って行ってお願いしたら「ああ、いいよ」とすぐその場で店頭に貼って下さったときのお礼をお伝えしました。

「ああ、覚えてるよ。あの本はよく売れたよね〜」と奥様に言いながら、ご自身の著書と私が持ってた写真集を両手に、快く写真に納まってくださいました。
青いエプロンは、小学館からプレゼントされたおじさんお気に入りのドラえもんのエプロンです。

翌日の最終日は、6時〜常連さんたちが集まったそうですが、11時を過ぎても別れを惜しむ人でいっぱいだったと、行った人から聞きました。

幸福書房のおじさん・岩楯幸雄さんの著書「幸福書房の四十年 ピカピカの本屋でなくちゃ!」から

お金の余裕はありません。ありませんけど、不幸ではないのです。
本屋の仕事ができることがなによりの幸せです。
今は夫婦で合わせて20万円のお給料をもらっています。交通費も出ないので、私は自転車で通勤しています。
でも、それで不幸せかというと、全然不幸せではないのです。(略)だからこそ、仕事がなくなってしまうのはとても寂しいです。
幸福書房を続けたい、それが本当の気持ちです。みんな、体も心も元気です。(略)だからといって、このタイミングで借金をしてしまっては、絶対に返せないことは目に見えています。

高校生の頃から本が大好きで、書店に就職してから独立して本屋を開くまでの経緯、お客さんたちの顔を思い浮かべながら本を仕入れていた気持ち、経営に関するお金の問題、おじさんの人生と、とても正直な気持ちが書かれた内容に胸が熱くなり、おじさんに書くことを勧められた左右社の編集者さんにも感謝したい気持ちになりました。

幸福書房の四十年 ピカピカの本屋でなくちゃ!

幸福書房の四十年 ピカピカの本屋でなくちゃ!



それにしても、町から個人商店の本屋さんが消えてゆくことは本当に寂しいことです。

幸福書房で買った本を隣の喫茶店、さぼーるでコーヒーを飲みながら読み始める、お決まりだったこのコースを今後できなくなると思うととても寂しいです。


岩楯さんの本によると、雑誌が年々売れなくってることが大きく影響したそう。
私自身を振り返ってみると、雑誌は幸福書房で買うことが多かったけど、それでも、昔は一気に5冊くらい買うこともあったけど、最近はと思うと、月に多くて三冊、まったく買わない月もあることに気づきます。

幸福書房に限らず、町の本屋さんがなくなることにメランコリックな気持ちになる人は多いけど、やっぱり本を買う人がたくさんいてこそやっていける商売、時代の移り変わりについて等々、色々考えてしまいます。



本の最後のほうに、岩楯さんの選書を置いたブックカフェを東長崎で開店する構想がワクワクした口調で書かれていたことにほっと嬉しい気持ちになりました。
オープンしたら駆けつけたいです!

「寂しくなります。ありがとうございました」とお伝えしたおじさんに、
今度は「おめでとうございます!」と言いたいです。

美しい暮らし 楽しいたこ焼き 素敵な人生

子どもを産んでからずっと、私は多摩川の近くの街に住んでいます。
このとこなぜか親しい友人たちが続々と、都心から離れたこっち方面に引っ越してくる流れになっていて嬉しい限りなのですが、その一人がお引越しも片付いて、ハウスウォーミングの集まりをするのでと呼んでくれました。


坂巻恵子さんと初めて会ったのは15年以上前だったと思います。
丸ごと一冊(ヘアーメイクの)藤原美智子さんのムック本が出版されることになって、その中に藤原さんと親しい友人たちが集まるページがあり、その撮影のために藤原さんの自宅で、「藤原美智子の親しい友人同士」として会ったのが初対面。

元アンアンのスタイリスト、でも80年代から香港の富豪と結婚したことで、「香港マダム」としてその華麗な生活ぶりが「25ans」等で紹介されていた坂巻さん。
その頃の私はシングルマザーとして、仕事をしながら就学中の三人の子どもを育てていた身。
正直いって、坂巻さんの華麗なるキャリアやセレブな暮らしぶりは別世界な感じでした。
でもでもでも、いろんな共通の友人との繋がりやSNSのおかげもあって、付かず離れずといった感じに、いろんな場を共有してきました。

その坂巻さんが、ママチャリで行ける距離に引っ越してきた!
しかも、三年前に結婚されたばかりの若いご主人と共に。
知り合った頃とはまったく違う人生をスタートされた坂巻さんの新生活をお祝いしないわけにはいきません!(覗かせていただかないわけにはいきません、とも言えます(笑))

世帯数の多い普通のマンションの、平凡なドアをノックしてお部屋に入った途端、そこはけっして平凡ではない坂巻ワールド!

すっきりと片付いた部屋よりも、ごちゃごちゃと、家の主の趣味が散りばめられたお部屋のほうが居心地いいし、好奇心がわいてしまう私なので、時間と手間をかけて、独自の審美眼によって選ばれた物たちが所狭しと詰まっている様子に宝箱を覗く気分でワクワクしました。





「ベッドルームも見る?」って、いいんですか?ベッドルームまで覗かせていただいちゃって、と思いながら入っていったら、けっして広いわけではないお部屋だけど「いいな〜、気持ちよくぐっすり眠れそう!」
カラーコーディネートが流石です!

坂巻さんのお姉さまが描かれたK坂さんと坂巻さんの絵ですって。愛情たっぷりに描かれたインテリアにもピッタリの絵、素敵〜!

この日の集まりのお料理はすべてご主人の手作り。
それまでは料理をしたことがなかったけど、坂巻さんと結婚してから俄然お料理に燃えはじめたというご主人。三年のキャリアとは思えないプロ並みのメニューとおいしさでした。
坂巻さんコレクションの食器もいちいち素敵で、舌だけじゃなく、目も大喜びの食卓でした。






K坂シェフ、前日からの買い物&仕込み、本当にお疲れさまでした!
ありがとうございました!


オシャレなお料理を一通り堪能したところで、次は私の出番!(笑)
たこ焼きを。
母が大阪の女なので、子どもの頃からたこ焼きは我が家のテッパンメニューで、邪道は許されない(笑)母オリジナルレシピの材料を持参して行った私でした。

中はふんわり、外はかりかりに、まん丸く焼くやり方を指導しながら(笑)全員で焼きました。
とにかく手早くやるのが一番大事と言ったら、みんな真剣な表情でたこ焼き器に向かっていました(笑)

我が家のたこ焼きは中の具材に味付けしているので、ソースをつけずに食べてもおいしいのです。

意外なことに「自分で焼いて食べるの初体験」と言う人たちが何人もいて、みんなで焼き焼き大好評で嬉しかったです。
そして、初対面も、知り合ったばかりもいたけど、たこ焼きって、人と人の距離を縮めるのね〜と実感。


食事を始める前、坂巻家の愛犬、ピーさんを連れて、みんなで雪の残った夕暮れ時の多摩川をお散歩しました。
そんなに寒くもなく気持ちよかった〜

一人を除いて全員小田急線沿線の住人。
10歳以上年下の男性と再婚した人2名。
離婚してる人2名。
独身1名。
未婚の母1名ふくめて子持ち3名。
それぞれの個性、誰とも似てないそれぞれの生き方、それぞれの人生。
それでも共通の話題は尽きなく、同じところで大笑いできる、うなずき合える。

若い頃は都心に出てって、オシャレなお店を予約して会うのが定番だったけど、
もうそういう遊び方も飽きてきたかな〜という頃に、自然豊かな家の近所にどんどん友達が増えてきて、こんな集まり方ができることがとても嬉しいです。

次は桜の咲く頃、ピクニックしようねと言い合ったのでした。

追伸

坂巻恵子さんが今回のお引越しをされる際に手放した貴重なブランド物のアイテムのコレクションが、2月18日まで、表参道ヒルズの「Pass THE BATON」で販売されています。
オンラインショップはこちらから↓

https://online.pass-the-baton.com/store/exhibitor/detail/1000026030

「Pass THE BATON」のホームページはこちら↓

https://www.pass-the-baton.com/news/6963/

憧れのソフィア・コッポラの「ナマ」に触れられた幸せ

ガーリー・カルチャーを語る上で欠かせない存在、ソフィア・コッポラを知ったのは、90年代半ば、代官山に「ミルクフェド」がオープンしたとき、そのデザイナーとしてだった。
そして、2000年代に変わる頃、映画『ヴアージンスーサイズ』を観て、その才能に嫉妬するほど憧れた。(今でもこの映画は、もっとも好きな映画5本指の中のひとつに入る)

少女のもつ危うさ、はかなさ、残酷さを、ファッションという甘いベールにくるんで見せてくれるソフィア・コッポラの耽美な世界は、好きという言葉では足りないくらい好き♡

そんなソフィア・コッポラの長編6作目となる最新作『ビルガイド 欲望のめざめ』のジャパンプレミア上映を記念して出版された「ソフィア・コッポラ監督 20周年記念メモリアル・フォトブック『SET PICTURES』」の発売に合わせた写真展のパーティが、1月17日に原宿のBOOK MARCで開催されました。


この日は大雨の寒い日だったけど、ソフィア・コッポラを一目だけでも拝みたくてドキドキしながら一番乗りに駆けつけました。

本人はなかなか現れなかったけど、場内にはオシャレでキュートな女の子がいっぱいいて、繰り返し流されていた映画の予告編も何度観ても飽きない素敵さで、招待客の中に知り合いは全然いなかったけど、待ってる時間も楽しめました。


会場でふるまわれたドリンクは、フランシス・フォード・コッポラ・ワイナリーのソフィア・ブランドのワインでした。

だいぶ遅れてソフィア・コッポラ登場!入ってきた瞬間を興奮する気持ちで撮りました!

知り合いらしき人を見つけるたびに、自らハグしに行って、笑顔で会話するソフィア・コッポラは、主役のサービス精神というより、ただの参加者の一人という感じの自然なふるまいで、見た目は思ってた以上に華奢だったし(調べてみたら163㎝)、服も印象に残らないほど地味だったけど、フレンドリーな素敵オーラはハンパなくて、ちょっと距離を置いて眺めながら感激しまくりでした!

90年代から親しいヒステリックグラマーのデザイナー、北村信彦さんの姿を見つけたときは本当に嬉しそうで、素敵な二人に私までなんだか嬉しくなって、思わずカメラを向けてしまいました。

ちなみに昨年12月に東急プラザ表参道原宿で開催した中村のんディレクション「OMOHARA写真展 90’s」では、ヒステリックグラマーを紹介する際に、ソフィア・コッポラが90年代に撮ったヒステリックグラマーの広告の写真を展示しました。
映画監督になる前のソフィア・コッポラが、女優やミルクフェドのデザイナーをやっていたことを知っている人はいても、写真家としても活動していたことは、あまり知られていないように思います。とても好きな写真です。

今回、先行発売した写真集『SET PICTURES』の写真を撮った写真家はアンドリュー・ダーハム。
もちろん買って、サインしてもらいました。
私の作った写真集『70’HARAJUKU』(BOOK MARCでも扱ってくださっています)をおずおずプレゼントしたら
「え、これ、僕にくれるの?ありがとう!」と、立ち上がって握手を求めてくれて、とても気さくな素敵な人でした。



アンドリュー・ダーハム撮影のこの写真は、ソフィア・コッポラの映画の現場で撮ったスナップ集ですが、切り撮り方のセンスや空気感がとーっても私好みで、ソフィア・コッポラへの愛とリスペクトも伝わってきて、一生、大切に、いつも身近に置いておく一冊になることと思います。


自然体のソフィア・コッポラの姿、若手女優の中で、私が今もっとも好きなエル・ファニングの素顔もいっぱい見れて嬉しい。






昨年2017に観た映画の個人的ベストワンは、エル・ファニングが出演した『20センチュリー・ウーマン』でしたが(ブログにも書きました)、
2018年のベストワンも、早くもエル・ファニングが出演する『ビルガイド 欲望のめざめ』になりそうな予感。
2月23日の公開が待ち遠しいです!

映画の詳しい情報はこちらから↓

beguiled.jp/

2018 今年も時代と共に

一年間、ディレクターを務めさせていただいた東急プラザ表参道原宿の5周年記念イベント『OMOHARA写真展』は、昨年(といっても昨日)の12月31日、大晦日をもって、おかげさまで好評のうちに幕を閉じさせていただきました。

2017年は、一年間でありながら、思いがけず、70年代、80年代、90年代という時代を見つめ、この30年間と共に歩んだ、といえる一年となりました。

きっかけは、昨年2017年の1月に原宿京セラビルの喫茶店シーモアグラスで開催された染吾郎さんが70年代に原宿レオンで撮影した写真を展示した写真展でした。

ここで(株)電通テックの野瀬怜奈さんと出会ったことがはじまりでした。
野瀬さんは、私が2015年原宿のバツアートギャラリーで行った『70's 原風景 原宿』にも来てくれていたそうで、そのときの感激を語ってくれました。
そして、「いつかこのような企画でのんさんとお仕事をしたい」と言ってくれました。
そこからとんとん拍子に事が運んだ東急プラザの企画への流れ。

●5月に開催した70年代原宿の写真展。
このときは、写真集『70’HARAJUKU』からの写真を展示しました。

メインビジュアルとなった横木安良夫さんの写真。

染吾郎さん撮影の2枚(右は舘ひろしさん)


●8月に開催した80年代原宿の写真展。

メインビジュアルは達川清さん撮影の写真。


●そして12月に開催した90年代原宿の写真展。

青木正一さん撮影のストリートスナップ



この三つの時代を通して、時代を見つめることの楽しさ、写真の伝える力の大きさに日々感じいってた2017。



2014年に「自分が見たいから」というだけの理由で、70年代原宿の写真展を素人ながらも開催した私でしたが、いつのまにか、原宿のカルチャーを伝える伝道師的な役割になってしまった感もあり(笑)。

過去を探れば、「今」が見えてきて、「未来」のために「過去」を見つめる。

やればやるほど、このことが楽しくなっている今、今年2018年も引き続き、何等かの形でこの役割を継続してゆきたいと思っています。
そして、写真集『70'HARAJUKU』の帯に掲げたサブタイトル「出会うことが青春」の気持ちを携えて、共感してくれる新たな人たちとの出会いを楽しみにしています。

今年もよろしくお願いいたします!

「OMOHARA写真展 vol.3 90's」12月31日まで延長となりました!

東急プラザ表参道原宿5周年記念のイベントのディレクターとして年間関わらせていただいた「OMOHARA写真展」、最終となる90年代は、11月17〜12月25日までの予定でしたが、好評につき、年内いっぱい、大晦日まで開催されることになりました!

5月に開催された70年代、8月の80年代に続いて開催した90年代。
正直いって自分にとっての90年代原宿は(この頃は子育てと仕事に追われていて青春ではなかったので)たいした思い入れもなく、輪郭をはっきりイメージできなくて、どうなることかと思いながら写真集めを始めた次第でした。

ところが、この頃の原宿のキイになる人たちに会い、手探りで情報や写真を集めてゆくうちに、いろんなことを思い出し、「90年代は面白い時代だった!」と思えてきました。

メインスペースとなる3階に展示したのはストリートマガジン「FRUiTS」からの青木正一さん撮影のスナップです。
90年代といえば、若い人たちのカルチャーとして語り継がれているのは「ギャル文化」がメインですが、ホコ天が実施されていた時代の原宿の路上からは、それとは一線を画したポップカルチャーが生まれていたことを目の当たりに思い出しました。

「OMOHARA写真展」のキャッチコピーは「ココデシカ ココダカラ」となっていますが、まさに原宿という街、「ここでしか、ここだから」こそ生まれたファッションがあったこと、仲間を求めて「ココ」に集まってきた若い人たちがいたことを実感しました。そして、彼らの自由でエネルギーに満ちたスタイルを改めて面白く感じました。

※この会期中に、「FRUiTS」のバックナンバー100冊全巻が、ニューヨークのメトロポリタン美術館のライブラリーに所蔵されることになったというニュースが飛び込んできて嬉しかったです!


今や絶滅に瀕したとも言える原宿ポップファッションですが、原宿を愛してやまない(そして原宿を研究対象としている)ドイツ人の社会学者のヤーナさん曰く、海外では今でも「原宿」といえば、このイメージが強いそうです。

この写真展を知らずに東急プラザにふらっとやってきた90年代の写真に負けないくらいポップな男の子が、食い入るように写真を眺めていたので話しかけました。

服のほとんどはメルカリなどで90年代のアイテムを探して買っているそう。
ポップなファッションの子が集まるイベントを月一回、原宿で主催しているそうで、90年代に花開いた原宿カルチャーを、今なお、引き継いでいる若い人がいることに感激しました。
「でも、僕は、この時代にいたかったとか、羨ましいとか、そういう風には全然思わない。大切なのは温故知新」という言葉も頼もしかった。
そして、知らずに来たものの「なんか、元気もらえたわ〜、本当に来てよかった!」と言って帰って行った男の子。

世代を超え、国籍を超え、原宿カルチャーを愛し、そして原宿愛をライフワークにすらしている人たちとの出会いは、この写真展に関わったからこその宝といえます。


90年代の写真を集める中で、もうひとつ嬉しい出会いがありました。
写真集「70’HARAJUKU」のアートディレクター、白谷敏夫さんに紹介されたのはカメラマンのケニーさんでした。
90年代の裏原でスケーター仲間と遊び、カメラマンとして、早くから裏原カルチャーのど真ん中にいた人です。
写真を見せてもらいながら、当時の話を色々聞きました。

藤原ヒロシさん、ジョニオさん(アンダーカバーの高橋盾さん)、よっぴーこと江川芳文さんたちと作っていたフリーペーパー的カルチャーマガジン「LOVELY」のことや、オザケンさん(小沢健二)から「僕、出るから、そのあと入ったら」と言われて入居したマンションのこと。
そのマンションにはスチャダラパーのスタジオもあって、そのマンションから大ヒットした名曲「今夜はブギーバック」が生まれたこと等々。


中でも興味深かったのは、当時、原宿でしょっちゅう顔を合わせてた藤原ヒロシさん、NIGOさん、滝沢伸介さん、ジョニオさん等々、それぞれがブランドやショップを作るにあたって、「Tシャツのデザインしてくれないかな」「写真撮ってくれない?」、そんなノリで仲間内で協力し合ってたという話でした。
「裏原文化」という言葉は雑誌社が作ったもの、僕たちは、裏原文化を作ろうなんてことは全然意識してなくて、単に面白いことをやろうと、意識としてはひじょうにアンダーグラウンド的だった、でも、雑誌が特集したことで全国に広がっていってブームに火がついた、という話も、なるほどでした。

そして、もっとも興味深く、面白かったのは
「とんちゃん通りにあったNIGOさんの事務所に僕はデスクを置いていた。毎日、いろんな仲間が集まってきてて、とにかく、みんなが、いつも仲間といた。ガラケーはあったけど、90年代は今みたいにインターネットが普及してたわけじゃないし、みんなと何かやろうとしたら、直接会って、話し合うしかなかったんですよね」と言う言葉に、はっとさせられました。

90年代、インスタ等SNSで繋がることなんかできなかった時代、同じスタイルの仲間を求めて、オリジナルな派手なファッションを好む若い子たちは、ラフォーレ前や(東急プラザ表参道原宿の前身である)GAP前に集まってきてた。
そして、スケボーやバイクを趣味とするファッション感度のいい若者たちは遊歩道(今のキャットストリート)に集まってきてた。
そして、集まることによって可視化され、ひとつの形として育っていったカルチャー。

70年代の原宿で青春を送った私にとっては、「70年代、原宿レオンに集まっていた若者たちが、損得なしに交流し合う中から、やがてビッグになっていったのと同じようなことが、90年代の原宿でも起こっていたんだ」と、感激の気づきでした。


ケニーさんが当時撮った写真は4階と5階に展示されています。

藤原ヒロシさんと、「原宿MILK」の大川ひとみさんと、世界的帽子デザイナーのスティーブン・ジョーンズ。

この写真は、フリーペーパー「LOVELY」のために撮られた写真でした。

原宿のゴッドマザー的存在だった大川ひとみさんは、多くの若者たちの才能を見つけ、いろんな人と繋げ、チャンスを与えてきたことでも有名ですが、ケニーさんもまた、プロカメラマンになるチャンスを大川ひとみさんから与えてもらった一人だそうです。


ネイバーフッドの滝沢伸介さんと、ネイバーフッドの広告のために原宿で撮られた俳優・永瀬正敏さん。



そして、90年代末期に三年間だけクリスマスシーズンに実施された原宿駅舎のイルミネーションの写真を提供してくださったのはカメラマンの北島元朗さんでした。今の時期にピッタリともいえる写真であり、この駅舎がなくなることが時間の問題である今にとって、とても貴重な写真でもあります。


91年にバブルがはじけたとはいえ、今振り返ると、90年代はまだまだ豊かで、人の心にも余裕があって、エネルギーに満ちてる時代だったんだなー、
そんな風に思いました。

「若者」と呼ばれる人たちは世代交代し、流行もカルチャーも変わりゆくものだけれど、「歩行者天国」がなくなったこと、インターネットが一般に深く浸透したことが、2000年代からの原宿文化を大きく変えたことを目の当たりに感じました。もちろん、それは原宿に限った話ではありませんが。

あと10年経って、「OMOHARA写真展2000」なんて展示をすることは可能なんだろうか?
ふと、そのことを思いましたが、写真展で会った男の子が言ったように、昔を懐かしがるだけでなく、「温故知新」そのことをキイに、この先も、今に繋げる活動をなんらかの形で続けてゆきたいと思っています。

会場に足を運んでくださったみなさん、ありがとうございました。
そして、まだの方はぜひ、31日までに!

5階には、70年代、80年代の写真のアーカイブもスライドショーとパネルで展示しています。


今年の年頭、この企画を私にもちかけて下さった(株)電通テックの野瀬怜奈さんに心から感謝いたします。