中原淳一展を観て。「美しく生きる」
日本橋三越で開催中の生誕100年を記念した「中原淳一展」に行ってきました。
中原淳一は十代の頃から大好きで、私の拙著の中でも、その生き方、美学について触れてきました。
これは私の大好きな、中原淳一の言葉です。
もしこの世に、風にゆれる『花』がなかったら、
人の心はもっともっと、荒んでいたかもしれない。
もしこの世に『色』がなかったら、人々の人生観まで変わっていたかもしれない。
もしこの世に『信じる』ことがなかったら、一日として安心してはいられない。
もしこの世に『思いやり』がなかったら、淋しくて、とても生きてはいられない。
もしこの世に『小鳥』が歌わなかったら、人は微笑むことを知らなかったかもしれない。
もしこの世に『音楽』がなかったら、このけわしい現実から逃れる時間がなかっただろう。
もしこの世に『詩』がなかったら、人は美しい言葉も知らないまま死んでゆく。
もしこの世に『愛する心』がなかったら、人間はだれもが孤独です。
これでもか、これでもか、というほどの数の貴重な原画が展示されていましたが、当然ながら撮影は禁止。撮影許可がでている展示だけ撮ってきました。
中原淳一の作った服。
中原淳一提案の女の子のお部屋。
中原淳一の絵を元に、丸山敬太さんが作ったドレス。
ドレスの横に設置されたテレビで、ケイタさんが「自分にとっての中原淳一」について語っていました。ケイタさんが、どんだけ中原淳一から影響を受けてきたかは、彼が作るお洋服の美しさを見れば、一目瞭然です。
一緒に行った友人は図録を買いましたが、「じゃあ、貸しっこしよう」と言って、私は「別冊太陽 中原淳一 その美学と仕事」を購入しました。
展示物は撮れなかったので、この本のページをアップします。
本に掲載されている絵の本物を、ほとんど観れたことに感激です!
中原淳一の作品は乙女チックなイメージで捉えられがちですが、ちゃんと見ると、
彼が描く女性はみんな、甘いだけでなく、凛としています。
「私のいちばん好ましいと思う少女は、顔や形だけでなくて、
その少女がどんな性格のひとであるか、という事にあるのです。
美しくても好きになれない少女もいれば、特に美しいと言う訳ではないけれど、
近くにいてくれるだけでも心が明るく、美しいような少女もいるのです。 中原淳一」
「もはや戦後ではない」と日本経済白書が発表したのは昭和31年(1956年)でしたが、これらのスタイル画が、それより以前に描かれていたことにあらためて驚きます。
戦後、少女たちを熱狂させた「それいゆ」「ひまわり」の創刊者として有名な中原ですが、画家、編集者、詩人、コピーライター、スタイリスト、ファッションデザイナー、グラフィックデザイナー、人形作家、インテリアデザイナー、その活動は、肩書きでは括れない範囲に及んでいます。
ですが、そこには一貫した哲学があり、形の美しさを見せながらも、実は提唱しているのはすべて「心の美しさ」であり「豊かさ」です。
人としてよりよく生きよう、その姿勢です。
日本のファッション史においての重要な存在として、筆頭に挙げるべき名前は、中原淳一であると、常々思っている私ですが、あらためて年譜を見てみると、意外なほど、中原がメジャーに活動していた時期は短いことがわかります。
27歳(1940年)グッズの店「ヒマワリ」を開店。
33歳(1946年)雑誌「ソレイユ」を創刊。
34歳(1947年)雑誌「ひまわり」を創刊。
46歳(1959年)脳溢血で倒れる。
47歳には、心臓発作を起こし、48歳から千葉の館山にて療養生活を送る。
以降、病気と闘いながら、ゆるゆると仕事を続けた後、1983年、70歳で永眠。
驚くほどの作品の点数、そして、没後30年経った今も(活動時期から考えると半世紀経った今ともいえます)「美」を愛するたくさんの人たちに、影響を与え続けている中原淳一。
その功績の偉大さ、素晴らしさについて、あらためて考えさせられた展覧会でした。
昨日は、この展示に行く前に寄った丸山敬太さんのお店で、以前、展示会で予約してたベルトを引き取ってきました。
「リボン」は、中原淳一がこよなく愛したモチーフでもあります。
ウエストシェイプの形の黒いジャケットを何枚も持っている私なのですが(自分にとってのベストシルエット)、何年も着続けているジャケットでも、そのウエストにこれを巻いたら、新鮮な着こなしができそうだなと、そんな気持ちで買ったベルト。
「ちょっとしたアイデアを使って、いつも新鮮な気持ちでオシャレすることが大事」と、女性たちに提唱し続けていた中原淳一さんに、「そう!そういうこと!」って、言ってもらえるかな。